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2017年6月30日金曜日

中隊長の人間性

保阪正康氏――いい中隊長と悪い中隊長を分けるものは何なのでしょうか。人格ですか。

伊藤桂一氏――一つには教養でしょうか。自分が権力を手にしたときにそれを濫用しない自制心ですかね。でも一番はやっぱり人間性ですね。部下に対して威張らない、親切であること。信頼できる人は、自分から先に死ぬ覚悟ができています。そういう人の下にいると、あの中隊長のためならいつでも死ねると兵隊が思います。そういう部隊は強いです。
『昭和の戦争』

2017年6月27日火曜日

「阿南(惟幾)は、自分に信頼をよせている

部下を欺くような男ではなかった」(阿南の義弟、竹下正彦中佐(当時))
『一死、大罪を謝す  陸軍大臣阿南惟幾』

2017年6月26日月曜日

天皇は、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を呼び出して

開戦となった場合の見通しを質し、陸軍は南方を三ヵ月で片付けるという杉山に「杉山は支那事変勃発のときは陸軍大臣として一ヵ月で片付くと言ったが四年も続いているではないか」と問い詰めて、タジタジとさせています。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』

大詔を拝し奉りて

昭和十六(一九四一)年十二月八日  東条英機

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、と連合し支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽く迄平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若し(もし)帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪へず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦(また)、己が身を顧みず、醜の御楯(しこのみたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。
およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。
当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりませぬ。これと同時に絶大なる建設的努力を要すること言を要しませぬ。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是こそ、昭和の臣民我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことが出来るのであります。
この秋に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、欣快とするものであります。帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。
私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。


2017年6月24日土曜日

こうして、インパール作戦の反対者は淘汰され、

様々な個人的政治的利害を追求する人々が生き残り、非効率な資源配分をもたらすインパール作戦実地が合理的に承認されるというアドバース・セレクション(逆淘汰)現象、つまり逆淘汰現象が日本軍に発生したのである。かくして、昭和十九(一九四四)年一月七日、大本営は、成功する見込みのまったくないインパール作戦の決行を承認したのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』

沖縄戦への哀悼

昭和二十年六月二十三日、第32軍司令官牛島中将、参謀長長中将、司令部壕東側入口で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。

合掌





2017年6月22日木曜日

インパール作戦反対論

補給出身で当時「兵站の神様」と呼ばれていた小畑信良(おばたのぶよし)第十五軍参謀長は、この作戦に反対の意を唱えた。彼は、数度にわたる空中偵察を行った結果、補給困難を理由に、この作戦が実行不可能であると判断したのである。これに対して、牟田口(廉也)は小畑参謀長を必勝の信念に欠ける臆病者と判断し、赴任後、わずか一か月半で彼を更迭した。

また、インパール作戦に参加する三個師団、つまり第十五師団山内正文(やまうちまさふみ)中将、第三一師団佐藤幸徳(さとうこうとく)中将、そして第三三師団柳田元三(やなぎだげんぞう)中将の各師団長も、補給困難を理由にしばしば第十五軍牟田口司令官と対立していた。とくに、陸大三四期で成績優秀者として天皇から軍刀を授与された恩賜軍刀組の柳田中将は、何事も理論と計算によって行う合理主義者であった。彼は、ソロモン、ニューギニア、そして太平洋の戦訓から航空戦力の劣勢と補給能力を欠くインパール作戦は必ず失敗することを明言していた。そして、この柳田中将の意見に、山内中将と佐藤中将も共感していたのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』



不条理なガダルカナル戦

限定合理性の観点からすれば、ガダルカナル戦での日本陸軍の不条理な白兵突撃戦術へのこだわりは、実は人間の非合理性が生み出した行動ではなく、むしろ当時の状況から推測すれば、そのような行動は合理的だったのである。このような人間の合理性が夜襲による白兵突撃のようなまったく非効率でナンセンスな戦術に日本陸軍をロック・インさせ、多くの犠牲と悲劇を生み出したのである。ガダルカナル島は、そうした人間の合理性が生み出した最悪の戦場だったのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』


2017年6月18日日曜日

むろんこれはソ連のいいががりで、

ソ連はこの年(昭和二十年)二月のヤルタ会談の秘密協定によって、ドイツ降伏後三カ月をメドにして対日参戦することになっていたからだ。しかし(情報局総裁)下村(宏)も指摘するように、(ポツダム宣言の)「黙殺」はソ連に体よく利用される表現でもあった。
『昭和天皇実録 その表と裏』

第32軍司令部崩壊

牛島(満)第32軍司令官は、(昭和20年)6月18日夕、参謀次長及び第10方面軍司令官あてに訣別伝を発した。
「……勇敢敢闘茲に3箇月全軍将兵鬼神の奮励努力にも拘わらず、……戦局正に最後の関頭に直面せり、……上陛下に対し奉り下国民に対し真に申訳なし……皇室の弥栄と皇室の必勝とを衷心より祈念しつつ、茲に平素の御懇情、御指導に対し深甚なる謝意を表し遥かに微衷を披瀝し以て決別の辞とす」
『定本 沖縄戦』

2017年6月17日土曜日

「(昭和十九年)八月私(井上成美)が(海軍)次官に着任して

間もなく、(米内)大臣から『陛下から燃料の現状をご下問になったので奉答のため資料を』とのお話があり、軍需局長にその目的を告げて資料を求めたところ『本当のことを書きますか』と尋ねるから『変なこときくネ。陛下に嘘を申し上げられない。勿論ほんとのことさ、なぜそんなことをきくのか』と問うと『実は島田(ママ)大臣のときはいつもメーキングした資料を作っておりました』と答えた」
『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料(上下)』

2017年6月15日木曜日

統帥部への激しい怒り

(昭和天皇)実録には書かれていないが、五月三十日(昭和十八年)に参謀総長の杉山元が戦況上奏した折には、「アッツ島部隊は任務に基づいて最後までよくやった。右通信で伝達する」よう伝えると、杉山は「暗号書は焼却され、通信機は破壊されております。聖旨のほどを届けることはできません」と答えた。天皇は次のように反論したという(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』)。

「届かなくてもいいから北太平洋に向けて電波を出せ」
『昭和天皇実録 その表と裏』

東部軍司令部(昭和十七年四月)十八日発表

「午後零時三十分ごろ敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、我が空、地両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり、現在までに判明せる敵機墜落数は九機にして我が方の損害軽微なる模様、皇宮は安泰に亙(わた)らせらる」

日本上空では一機も撃墜されなかったのに、九機撃墜との発表に対し、「落としたのは九機ではなく空気だ」と陰口を叩かれたという(富永謙吾『大本営発表の真相史』)。
『昭和天皇実録 その表と裏』

2017年6月9日金曜日

(昭和天皇)実録には幾つかの意外な証言がある。

たとえば昭和十六年七月七日には、海相の及川古志郎の奏上の折に、次のように語ったとある。

「当初仏印出兵に反対で軍令部総長(保阪注・永野修身)が、部下の進言により決心するかの如き話があるとされ、志に動揺を来しては困ること、また日米交渉に対しても冷淡な様子であるとして疑問を呈される」

天皇は海軍の軍令部総長に信を置いていないともいえる。
『昭和天皇実録 その表と裏』

2017年6月8日木曜日

昭和二十年八月九日に、ソ連は日ソ中立条約の違約

というかたちで満州に進撃しているし、八月十五日以後九月二日の無条件降伏文書への調印の日まで、千島列島や樺太に兵を進めている。このときスターリンは、こうした一連の行動を「かつての日本との戦争(注・日露戦争)の復讐戦である」といったが、スターリンの潜在心理にはそのような怨念がのこっていたことを物語っている。
『昭和陸軍の研究』

送られたのは奉天に近い営口であった。

ここで守備隊に配属された。M老人のような補充兵の間では、「補充兵は消耗兵なり。進撃ラッパは冥土の鐘なり」とささやかれていたというのだ。
『昭和陸軍の研究』

2017年6月7日水曜日

日暮れまでまだ四五時間はあるし敵はいよく

身近かに迫って危険が感じられた。兵隊は状況が迫ってきた事を肌で感じ”小隊長大丈夫ですか”としきりに寄ってきた。
『菊と龍』

2017年6月4日日曜日

標高三千メートルを平地で計算

北ビルマからインパールに向かう進撃地域が山系、峡谷、高地ばかりだったことで、兵士たちは標高三千メートルの山々をひたすら登り降りしながらすすまなければならない。この地形は牟田口(廉也)や参謀たちの予想をはるかに超えていた。しかもチンドウィン河からインパールの距離を、例えば第十五師団は約七十キロ、第三十一師団は約百キロ、第三十三師団も約百キロと想定していたが、これは平地の実測に等しく、山系や峡谷を登り降りする距離のそれこそ十分の一ていどになるのではないかと思われるほど甘い計算だった。
『昭和陸軍の研究』

昭和陸軍の軍人たちは、「軍人勅諭」を頭に叩きこむのを

第一義とした。この「軍人勅諭」にあらわれている精神こそ軍人の最高道徳であるというのであった。この勅諭が唱せられるときは誰もが直立不動の姿勢をとるほど権威化されていたのである。

「一、軍人は忠節を尽すを本文とすへし
   一、軍人は礼儀を正くすへし
   一、軍人は武勇を尚(たつと)ふへし
   一、軍人は信義を重んすへし
   一、軍人は質素を旨とすへし」

文民支配を拒否するとの意味で、

解説文のなかには「我が国における憲法学者の大部は、統帥権独立制に対する擁護又は承認論者にして、異説をなす者は比較的少数なり」という一節もある。
この『統帥参考』は、陸大のなかで行われた教育がどのようなものかをはっきりと位置づけている。軍人こそが大日本帝国の主たる役目を果たす存在であり、その軍人の行動には他のどの集団の誰もが口を挟むことはできないというのであった。
『昭和陸軍の研究』

2017年6月3日土曜日

さらにもう一点加えるなら、

昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、論理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
『昭和陸軍の研究』

太平洋戦争を担った軍事指導者の共通点のもう一点は、

親ドイツ、反英米、という考えに固まっていたことである。もともと日本陸軍はフランス陸軍を模倣して建軍された。だが普仏戦争(一八七〇〜七一年)によってフランス軍が敗退すると、今度はドイツ陸軍を真似た。明治十年代にはドイツ陸軍の軍人が日本に招かれ、陸大においてドイツ型の軍事教育や精神教育を行ったのである。さらに陸軍幼年学校では、ドイツ語、ロシア語などが中心になり、英語教育はまったく軽視された。
『昭和陸軍の研究』

太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、

だいたいが明治十年代中期から二十年代後期にかけての生まれである。
彼らにはいくつかの共通点があった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。
『昭和陸軍の研究』