中央連絡などと称して逃げ出してはスタンド・プレイをやっているのを、苦々しげに、
「あんな者をのさばらせておくから駄目なんだ」
と言っていたことがあるそうである。
『山本五十六』
2015年8月16日日曜日
辻が、戦況が思わしくなくなると、
2015年8月9日日曜日
兵士を単に戦時消耗品とみる気質
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
『昭和陸軍の研究』
『昭和陸軍の研究』
太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、
だいたいが明治十年代中期から二十年代後期にかけての生まれである。
陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。
太平洋戦争を担った軍事指導者の共通点のもう一点は、親ドイツ、反米英、という考えに固まっていたことである。
さらにもう一点加えるなら、昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、倫理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
『昭和陸軍の研究』
八月十四日の御前会議
「このさい、自分のできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから、とつぜんこのことを聞いたらさだめし動揺すると思うが、自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ」(四十四歳の陛下)
『日本のいちばん長い日』
『日本のいちばん長い日』
2015年8月6日木曜日
「このような武器がつかわれる
ようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」(昭和天皇)
『日本のいちばん長い日』
2015年8月1日土曜日
部下を統率するに権威をもって
無理押ししたり、権謀術数をもって籠絡するような、不自然なことまでして服従させようとする人では、中尉はなかった。曽根准尉のエピソードはそれを如実に物語っている。
ここに若林(東一)勇猛中隊の「団結」の秘密があったとみることができる。どこまでも裸の人間同士の結びつきでゆく、自然な合理的な行き方であった。
『列伝 太平洋戦争』
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