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2017年9月7日木曜日

「あの馬は、もう死ぬな。この見通しのいい砂地に、

砲を曳いてくれば、標的になるだけじゃないか。日露戦争と同じだ。アンパン抱いて戦車退治するより手のない戦争ってあるのか?そう思わないか。――どうせ死ぬにしても、だれかと話したくなった」
『静かなノモンハン』

2017年9月6日水曜日

一九八九年、モスクワの戦史研究所を訪れたとき、

資料保管室の中に金網で囲まれた一角があり、外見からすると、どうやら日本兵から捕獲したと思われる手帳や日記帳が保存されているようであった。当時の状況から、私は、それらの捕獲物についてあえて尋ねることをしなかった。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

サイダー瓶による火炎瓶

(第七師団第二十八聯隊はハイラルから二百十六キロを行軍し、八月)二十一日に将軍廟へ着きました。
(……)
サイダー瓶にガソリンを詰め、点火芯には乾パンの袋や、兵器手入用の晒木綿や手拭を裂いて使い、これに点火して戦車に投げつけます。すると、エンジンの熱と暑熱とで灼け切っている戦車の鉄甲は、ガソリンを浴びてたちまち燃え出し、焔は天蓋の隙間から内部に吸い込まれて、内部をも焼きつくします。
(……)
明日はまちがいなく戦車と対決する運命にさらされます。
『静かなノモンハン』

2017年9月3日日曜日

「フイ」高地の悲劇

戦闘後、塹壕と掩蔽部から、六〇〇以上の日本軍将兵の屍体が引きずり出された(シーシキン他(田中克彦編訳『ノモンハンの戦い』)

ソ連側は、これでフイ高地は一人残さずかたづけたと信じていて、陣地に占領を示す赤旗を立てたし、日本側も全滅したものと考えた。
ところが壕の中には、まだ一二九人の兵が、水も糧食もないまま生きていた。井置支隊長は通信機も破壊され、連絡もとれず、(八月)二五日未明、ソ連軍が立ち去った後、自らの判断で、高地を脱出して本隊に到着した。その脱出がいかに成功裡に行われたかは、「一人のぎせい者も出さなかった」という事実に現れている。しかしこれは命令によらない無断撤退であると罪を問われ、停戦協定後の九月一六日、ピストルを渡されて自決を強要された。命令に反して撤退したという理由で、靖国神社にまつられることも許されなかった。それが許されたのは戦後になってからであると伝えられる。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

(昭和十四(一九三九)年六月二十七日のタムスク)越境空爆は、

この段階で国境衝突がすでに「事件」とは呼び得ない様相を帯びたことを明らかにしている。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

天皇はかつてない怒りを顔に表して言った。

「自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごときものに勅使などもってのほかのことである。また、師団長が積極的に出られないと言っているのは、自分の責任が何であるか解せざるものだ。直ちに鎮定するよう厳達せよ」
『昭和天皇ご自身による「天皇論」』

2017年9月2日土曜日

瀬島(龍三)は歴史的証言をするにあたって、

関係者が存命中は表立った反論こそしないものの、その人物の死後になると前言を翻すような証言をする。その手法を知っているのであろう、旧軍人やかつての大本営参謀たちの中には、「自分の死後に、瀬島の発言によって、私の名誉が汚されることがあったら、保阪さん(著者)、徹底的に反論して欲しい。そのために史料を託したい(あるいは、証言を記録して欲しい)」と申し出る者さえあった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』