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2014年11月24日月曜日

「ほどなく安藤中隊長が来た。

夫人もどこからか現れ、倒れた(鈴木)侍従長の側に正坐して微動だもしなかった。その夫人の姿は、三十年後の今日でも忘れることが出来ない。実に立派な態度だった。
安藤中隊長は夫人に向かって、
『麻布歩兵第三連隊第六中隊長、安藤輝三』
と名乗った。襲撃理由は、昭和維新断行のため、とだけいった。
夫人は何もいわず正坐をつづけていた。
しばらくすると中隊長は、
『まだ脈がある。武士の掟により閣下にとどめを……』
といった。安藤中隊長は既に軍刀の柄に手をかけていた。正坐していた夫人が初めて口を開いた。
『それだけは私に任せて下さい』
少しも取り乱したところはなかった。
『では、とどめはやめます』
中隊長はそういって立ちあがると、倒れている鈴木侍従長に挙手の礼をした。私たち全員は捧げ銃の礼をとった」(同、奥山元軍曹)
『昭和史発掘』

「『どこの兵隊だ?』

(鈴木貫太郎)侍従長は云った。
『麻布歩兵第三連隊』
と私は答えた。
『なんのために来たのか?』
『自分には分りません。中隊長を呼ぶから、詳しいことは中隊長からきいてください』
私がそう答えたときだった。背中で拳銃の発砲する音がし、銃弾が私の耳をかすめた」(奥山粂治元軍曹)
『昭和史発掘』

「明治神宮に参拝するということで出発した。

営門を出ると右に折れ、まもなく連隊の塀の前でとまった。そこで実弾を支給された。五発ずつで、雑嚢から出して渡された。
中隊長に注目の号令がかかった。中橋(基明)中尉は『これから国賊高橋是清を葬る。右向け、前え』といった。これは大変なことになったと私は思った。しかし命令に従うほかなかった」(三浦作次元上等兵)
『昭和史発掘』

「不寝番の声がいつもと違って『非常』

『非常』と押し殺したような低い声だったのでおかしいと思った。演習服を着たところ、今日は二装だといわれ、あわてて着かえた。
近衛兵は、一装、二装、三装、演習服と持っていた。一装は儀仗兵に出るときのものである。演習服でなく、なぜ二装でなければならないのだろう。へんだな、と思った。
また、誰かが機関銃の銃身がいつの間にか空包用から実包用に変っているといっていた」(伊藤健治元一等兵)
『昭和史発掘』

「連隊本部の近くに機関銃隊が整列していた。

地面に置いた機関銃を見ると実包銃身になっている。私がなおも覗こうとすると、傍にいた栗原(安秀)中尉が、
『衛兵司令、出て行け』
と怒鳴った」(同、関根元上等兵)
『昭和史発掘』

「山口(一太郎)大尉は、戸山射撃場に行くのだから

心配はない、と繰りかえすばかりだった。
『これまで兵が班内で実弾をもらったことはありません』
私がそういうと、山口週番司令から、
『生意気云うな』
と怒鳴られた」(関根茂万元上等兵)
『昭和史発掘』

2014年11月22日土曜日

一番機が突入した敵空母の飛行甲板の穴を

狙って突っ込んだ二番機、被弾して火の玉のようになりながらも最後まで操縦を誤らず、一直線に敵空母に体当りした三番機。出撃の時の屈託のない笑顔。……そんな情景が、つい最近のことのように鮮明に思い出されるのだ。
『特攻の真意』

2014年11月9日日曜日

天皇のもっとも信頼しているのが倒れた重臣個人にあったというよりも、

重臣組織にあったとみるべきであり、その破壊は、天皇の「首ヲ真綿デ締メルニ等シキ」という言葉に表される天皇制の「圧殺行為」というように解することができよう。「蹶起」の青年将校らが聞いたら驚倒する天皇の激しい言葉である。
『昭和史発掘』

2014年11月4日火曜日

戦時の際も、中央部や高等司令部は

天保銭をもって満たされている。しかし、もし彼らが敵弾下にさらされようものなら、ほとんどが臆病者なのである。ところが、論功行賞ともなれば、臆病者の参謀が殊勲甲である。最前線で奮戦した中隊長はやっと『殊勲乙』しかもらえない。はなはだしいのは内地の官衙在勤者(陸軍省、参謀本部など)が戦線にいた中隊長よりも功績の上で上位となる。

天保銭組(陸大卒)は幕僚として中央に

あって作戦や軍政にたずさわり、隊付将校を指揮統率している。ところが、隊付将校は、いざ戦争となると第一線に立つ消耗品で、真に兵と生死をともにする。それが後方の安全地帯で作戦指導する幕僚に頤使(いし)されるのだから、その「不合理」に隊付将校は憤懣をおぼえている。
『昭和史発掘』

2014年11月1日土曜日

海軍は戦争を指導し、敗戦という結果を招いた。

その中心だった軍令部のメンバーの多くは、戦後、後継組織の第二復員省へと移り組織を挙げて真実を隠匿し、組織を守るための裁判対策を実施した。その結果、多くの事実が表に出ることなく歴史の闇に埋もれていった。

いま私たちの社会を覆う停滞感が、何が起きても誰も責任を取らない無責任の連鎖の末にあるのだとしたら、その起点は一体どこにあるのか。その一つは、あの戦争に、私たち日本人がしっかりと決着をつけていないことなのではないか。誰も本当の歴史を語らず、敗戦の責任を取るべき人たちがそうすることのなかった戦後日本の出発点にこそ、現代の閉塞感の起点があるのではないか。
『日本海軍400時間の証言』

「東京裁判を終えた日本弁護団が異口同音に、

陸軍は暴力犯、海軍は知能犯、いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分であると」(豊田隈雄元大佐)
『日本海軍400時間の証言』

「上を守って下を切る」

(豊田隈雄)元大佐の部下で、BC級裁判の対策を担当していた二復(第二復員省)班長から、弁護人に宛てられた昭和二十一年作成のメモである。
「陛下に塁を及ぼさないために中央に責任がないことを明かにしその責任を高くとも、現地司令官程度で止めるべし」
「問題は責任の遡上をどこで食いとめるか」
『日本海軍400時間の証言』

「あのとき、篠原(多磨夫)大佐が、

”自分は命令をしていない”と裁判で主張していたら、私たちは絞首刑になっていた筈です。艦隊司令部は命令を否定したが、篠原大佐は私たち一兵卒を救うために自ら命令をしたことを認めたんだ。あれから五十八年。いつも篠原さんに感謝しながら生きてきたんです」(法村剛一氏)

「軍隊に属していない人間には分からないかもしれないが、当時の日本軍では上官の命令は絶対だった。上官を無視し、独断専行で命令を出すなんてあり得なかった。全ては上意下達。艦隊司令部の法務官が立ち会っていながら、艦隊司令部は一切命令に関与していないなんて、よく言えたものだと呆れてしまう」(同、法村氏)
『日本海軍400時間の証言』

「『現地部隊が独断で動いた』と

戦後多くの事件について現場指揮官がその責を負いました。実際は、軍令部がそんなことを許すわけがありません。彼らは命令していない、作戦を立案しただけで自分たちに責任はないという立場をとるでしょうが、そんなことはありません。」(元海軍主計大尉・近藤道生氏)
『日本海軍400時間の証言』