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2015年10月18日日曜日

第一段作戦終了までの物量の喪失は、

ほぼ戦前の見込みどおりであったが、その後は文字どおり日を追うにしたがって末ひろがりに予想を外れていった。しかも、艦隊決戦の思想にすがりついて、長期に移行する戦争の性格を見通せなかった――あるいは見まいとした――責任の体系は、前にも触れたようにないのである。が、そのために、ジレンマに苦しみながら死んでいった多くの同胞がいる。
『ガダルカナル戦記』

2015年10月4日日曜日

「ま、よく生きて帰った。よかった、よかった」

「海軍さんのおかげです。海軍さんは、救命胴衣も持っておりません。それでも陸軍の兵隊を救けようと、最後まで手助けしてくれたのです……海軍さんは、大方、死んでしまいました……」
涙になり、話はとぎれた。
こういう第一線の陸兵と海兵の互助精神は、戦場のいたるところでみられた。が、上層部では、常に陸軍と海軍の対立意識がにらみ合っていた。これはどういうことか……。
『ガダルカナル決戦記』

2015年10月3日土曜日

後世まで伝えられるべき一部指揮官の人間性

死守の命令に抗して部下を助けたミートキーナの水上源蔵少将

陸軍史上初の「抗命」を冒して撤退したインパールの佐藤幸徳師団長

戦犯として服役中、部下の釈放を見届けてから自決したニューギニアの安達二十三(はたぞう)中将
『太平洋戦争の肉声』

日本陸軍の聖域 参謀本部作戦課

当時、稲田(正純)大佐(参謀本部作戦課長)は、よく直接大臣に短絡して事をきめる癖があり、このときも直接大臣に報告するので、それに立会うことになった。稲田大佐の報告では、要するに騎兵隊の仇討に第二十三師団の主力を派遣して「ソ」軍を一たたきするというのであった。報告が終った。岩畔(豪雄)(陸軍省)軍事課長がまさに発言しようとしたとき、板垣(征四郎)大臣は「よかろう」と、あっさり稲田大佐の意見に同意してしまった。大臣が同意すればそれまでである。これで「ノモンハン」の戦闘が始まることになった。
『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』