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2017年3月26日日曜日

関東軍参謀辻政信は、これを一勝一敗と強弁した。

先に東捜索隊が外蒙軍の小部隊をハルハ河左岸に撃退し、飛行機をもって若干の包(パオ)と人員を爆撃したのが一勝で、東中佐以下捜索隊が壊滅し、山県支隊の攻撃が失敗したのが一敗だというのである。
この負け惜しみはノモンハン戦の最後まで尾を曳くことになる。
『ノモンハン』
辻政信

2017年3月22日水曜日

「厳しいだけで人情はない。

命令だけですよ。結局、図上戦術と兵棋演習だけで築き上げられたもので、そこに人間は存在しなかったんですね。……辻政信などは、部隊が山上の敵を攻めているのをうしろで見ていて、もっと早く攻めさせろなどと言っている。攻めてる兵隊たちは、非常な苦労をしているというのに、ただやれやれでしょう。兵隊は山を上りながら死ぬ。そうした命令を無造作に出せるんですからねえ」(作家、伊藤桂一氏)
『ノモンハンの夏』

2017年3月20日月曜日

「満ソ国境紛争処理要綱」

強硬派の関東軍作戦参謀辻政信少佐が起案し、昭和十四年四月二十五日の関東軍兵団長会同で示達されたこの要綱がもたらした各方面への波及効果を検分しよう。要綱は冒頭で「軍は侵さず、侵さしめざる」を本則とするが、国境におけるソ蒙軍の不法行為(越境等)は「周到なる準備の下に徹底的に膺懲(ようちょう)」し、その「野望を初頭に於て封殺破摧(はさい)」する方針を宣言している。

全体に流れる好戦的姿勢はともかく、第一線の兵団長に国境の認定権を委ねたうえ、越境を意味する「一時的にソ(蒙)領に進入」(第三項)するのも容認したのは、天皇大権を犯しかねない越軌と見られてもしかたがない。
『明と暗のノモンハン戦史』

今岡豊少佐は陸大の学生だった一九三四年頃、

新京で関東軍参謀から「西の国境はこっちが強くなれば延びるし、向こうが強いと引っ込む。わざとぼかしておくんだ」と述懐したのを聞いている。(ノモンハン)事件さなかの三九年六月二十四日、天皇が閑院宮参謀総長へ「国境画定は関東軍が寧(むし)ろ之を欲せざりしにあらずや」と質問しているのは、今岡の回顧を裏付けるものかもしれない。
『明と暗のノモンハン戦史』

2017年3月6日月曜日

敗戦直前にソ連を仲介とする和平工作が進められたが、

冷徹な超現実主義者のスターリンが日露戦争の勝利者のためにどうして骨身を削ってくれようか。それどころか相手が弱体化したとみて、一気に襲いかかってきたのである。
『ミッドウェー海戦』