太平洋戦争研究会
~太平洋戦争の真実を追う~
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2016年5月2日月曜日
ダンケルクの内部に残るしかなかった負傷兵は、
それよりはるかに過酷な状況に見舞われ、看護兵や軍医は、かれらを励ますこと以外、ほとんどなにもできなかった。
『第二次世界大戦 1939-45』
2016年4月29日金曜日
日支事変以来、ラバウル、ソロモン、ニューギニア、
硫黄島、台湾沖、そしてフィリピンと、修羅場をくぐってきた角田(和男)さんは、ベテランなるが故に特攻隊の直援(ママ)や戦果確認の任務が多く、仲間や部下の体当たりを見届ける辛い非情な役目を耐え抜き、終戦まで生き延びた。生き残ることは、彼にとって重い負担であったに違いない。(元第一航空艦隊副官、門司親徳氏)
『修羅の翼』
2016年2月28日日曜日
ジューコフ将軍は早速、
敵に投降した兵士の”家族”にかんするスターリンの指示をさらに厳格化することを決め、現場の各指揮官にこう申し渡した。「すべての兵士に周知徹底させよ。敵に降伏したら、諸君の家族はひとり残らず銃殺にかけるし、諸君自身も、収容所から戻ったあとは、即刻銃殺刑だ」と。
『第二次世界大戦 1939-45』
ゲオルギー・ジューコフ
なるほどソ連軍は、背後に督戦専門の政治士官や将校がいて、
兵の背中に銃口を突きつけ、突撃を強制することがままあったけれど、ソ連兵はそれでも、そうした土壇場に置かれると、必死に勇気をふりしぼり、戦いを継続するのだった。
『第二次世界大戦 1939-45』
2016年2月11日木曜日
南方軍集団司令官ルンテシュテットは、
ロストフからの撤退を意見具申した。
しかし、ヒトラーはこれを拒み「死守」を命令した。その後、乱発されることになる「死守」命令の始めのひとつである。しかし、プロイセン以来の正統な野戦軍司令官であるルンテシュテット元帥は、軍事的に無意味な命令に従うつもりはなかった。
(一九四一年)十一月二九日、ルンテシュテットは死守命令を無視して、部隊に撤退命令を下した。激怒したヒトラーはルンテシュテットを軍集団司令官から罷免した。
『西方電撃戦』
2016年2月8日月曜日
部隊の練度も最低だった。
一九三〇年代後半に荒れくるったスターリンによる大粛清によって、能力ある指揮官が失われたため、兵士は戦い方を知らないのだ。
『西方電撃戦』
2016年2月6日土曜日
かつて赤軍を席巻した「大粛清」のせいで、
大規模部隊を動かした経験を全く持たない将校が、いまや師団長や軍団長をつとめており、しかも密告や告発、「NKVD(ソ連内務人民委員部)」による逮捕を恐れるあまり、状況にしたがって臨機応変に判断をくだす気風までが廃れていた。
『第二次世界大戦 1939-45』
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