さしかかったのは、(昭和十九年十月二十四日)午前十一時二十四分のことである。
「右前方潜望鏡!」
艦載機延べ150機が武蔵へ集中攻撃。直撃弾17発、魚雷20発以上を受け浸水量約3万トンに達し、総員退艦命令とともに軍艦旗が降ろされた直後に沈没した。
合掌
「武蔵」沈没地点
2016年12月31日土曜日
2016年12月18日日曜日
最大幅が、ネルソンの三二メートル、
長門の二九メートルに比較して、一〇メートル近くも広いというのは、艦の幅が異常に広い妙な艦型であることを示している。むろんそれは、巨大な主砲を備えた戦艦としては当然の艦型で、巨砲九門の一斉射撃に堪えるためには、艦の幅を思いきってひろげねばならず、また、艦の長さをより短くして、敵からの攻撃範囲を少くしようとするための配慮にちがいなかった。
『戦艦武蔵』
『戦艦武蔵』
「軍機密に属することなので、
口頭でお伝えします。この度、海軍では、全く同型の戦艦二隻を建造することに決定しました。その第一号艦は、呉の海軍工廠、第二号艦は、三菱重工業株式会社の長崎造船所で建造することに内定しています」(海軍艦政本部本部長、上田宗重中将)
『戦艦武蔵』
『戦艦武蔵』
2016年12月17日土曜日
2016年12月15日木曜日
いやすでに敵のまん中にとびこんでしまったのだ。
すべてのことが私の思惑や感情を外れている。たとえようのないはなれ業だ。艦橋は静かであり、「配置に就け」の毎日の訓練のままの姿勢であった。どこにも興奮がない。次の瞬間には歴史に絶した、世界一の殴りこみがはじまるというのに、兵の胸には自分らのこれからすることに対する武者ぶるいも生じていないのか。勇ましい動揺も覚えていないのか。魂を揺すぶられているにちがいないのに、彼らにはそれが予感できないのか。艦橋には鋼鉄と同じ性質の意志をはらんで、がっしりとかまえ、鳴りをしずめていた。(丹羽文雄氏)
『完本・太平洋戦争 海戦 ーー第一次ソロモン海戦ーー』
2016年12月14日水曜日
人間を兵器と見なし、そして相手方の艦艇に体当たり攻撃を
行うに至った。「十死零生」というこのような戦術を強行した軍事指導者は、近代日本のなかのもっとも恥ずべき指導者として相応の批判を受けて当然である。直接にこういう戦術を行うよう指示した指揮官とは別に、巧みにこの作戦を特攻隊員たちの主体的意思であるかのように装った指導者たちも明確に責任を問われるべきではないかと思う。
『「特攻」と日本人』
『「特攻」と日本人』
2016年12月11日日曜日
「敵機!敵機!海上に敵艦船多数来襲!敵襲ッ」
昭和十七年八月七日、アメリカ海兵第1師団がガダルカナル島へ上陸し、2日前に完成したばかりの飛行場を易々と奪われてしまった。
日本海軍は、上陸戦隊を攻撃する為、第八艦隊を出撃させ、ここに第一次ソロモン海戦が惹起された。
日本海軍は、上陸戦隊を攻撃する為、第八艦隊を出撃させ、ここに第一次ソロモン海戦が惹起された。
2016年12月4日日曜日
日本で最も大きい主力戦艦「陸奥」の
舷側甲鉄が三〇センチの厚さがあるといわれているが、製鋼技術が進歩し薄くて強靭なものができはじめているというのに、それでもなお四〇センチ以上の厚さをもつ甲鉄を舷側にはる戦艦というのは、いったいなんなのだろう。
『戦艦武蔵』
2016年12月3日土曜日
堀(悌吉)少将を無二の親友と敬愛
していた山本五十六は、のちに(海軍記者)伊藤正徳にむかって、「堀を(予備役編入にして)失ったのと、大巡(重巡)一割とどちらかナ。ともかくあれは海軍の大馬鹿人事だ」と切言したという。
『真珠湾攻撃作戦』
山本五十六の海軍兵学校同期生(32期)堀悌吉
『真珠湾攻撃作戦』
山本五十六の海軍兵学校同期生(32期)堀悌吉
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