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2017年10月22日日曜日

日本よ、美しく年をとれ

「(……)
長年人間をやってきたが、世間による同調意識の強要にはホトホトくたびれた。ガツガツした拝金思想が、日本でも勢いを増しつつあるのを憂慮する。残り少ない人生において私が願うのは、『日本よ、美しく年をとれ』ということである」(千葉県・80代男性)
――『声  わたしの未来  2017衆院選』より

1926(大正15)年生まれの詩人 故茨木のり子さん代表作

わたしが一番きれいだったとき
……男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

東京に冷たい雨の降ったきのうは、74年前(昭和18年10月21日)に、当時のニュース映像でよく知られる雨中の学徒出陣壮行会が行われた日だった。
――『日曜に想う』より

2017年10月20日金曜日

(陸軍航空トップ)菅原(道大)(みちおお)中将のただならぬ厳粛な態度に、

(明野飛行場の)格納庫の中には息詰まるような空気が充満していました。そして菅原中将は驚くべき言葉を続けたのです。
「ただし、特殊任務を遂行する以上、絶対に生還はできない」
あたりは静まりかえり、物音ひとつしませんでした。そんな緊張感のなかで全員に一枚の紙が配られたのです。週刊誌ぐらいの大きさの紙で、右端には特殊任務と大きく書かれ、紙の中央部分に文字が三列にわたって並んでいました。
「熱望する
   希望する
   希望せず」
菅原中将の退席後、同行していた副官が言葉を継ぎます。
「この紙に官姓名を署名し、いずれかに丸をして、夕食までに提出せよ」
『特攻隊振武寮  証言  帰還兵は地獄を見た』

2017年10月18日水曜日

幽閉された軍神

「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者。死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」

大貫健一郎元陸軍少尉『特攻隊振武寮  証言  帰還兵は地獄を見た』
(ミュージシャンの大貫妙子さんは長女にあたる。)

2017年10月12日木曜日

鎮魂 作品に祈り込めて

1944年冬、陸軍兵としてニューギニア島西部に赴任。艦砲射撃の爆風で気を失い、顔に当たる雨で目を覚ました。40人の部隊で生き残ったのは2人。「戦場では弾が夕立のように降ってくる。当たらない方がおかしいんだよ」
「死んだ戦友たちは今、何を伝えたいだろう」。戦後は工芸作家として鎮魂の祈りを込めた作品制作を続ける。
戦争は小さいきっかけで始まると思う。「今のご時世、日本は憲法を改正して戦争に備えるべきだ。戦争賛成の人などいないが、撃ってくる相手に話し合いなんて通じないよ」(三橋國民さん(2015年取材当時94))

自尊 おれは自決しない

海軍兵として硫黄島へ。1945年3月1日、艦砲射撃を受け、砲弾の破片が全身に刺さった。
(……)
右手で自分の体をまさぐったが感覚がない。「おれはばらばらになったのか」。気づくと指が無かった。
日本軍の司令部壕に、米軍が火をつけた。燃えながら「助けてくれ」と叫ぶ日本兵を、味方が「黙れ」と撃ち殺した。「人間の皮をかぶった猛獣だよ」(秋草鶴次さん(2015年取材当時88))

責任 戦争を始める愚かさ

1944年12月から、フィリピンのルソン島で陸軍野砲兵第10連隊の砲手を務めた。激戦で2度負傷。顔にわいたウジを自分で皮ごとそぎ落とした。45年5月以降は極度の飢餓状態に。「馬は70円。死なせると不名誉だが、おまえらは赤紙と同じ1銭5厘だ」。上官には逆らえなかった。
「……戦争を起こす人は決して出征しない。死んだら神社にまつってやると言うだけだろう。愚かなことだ」(花岡四郎さん(2015年取材当時92))

反骨 死んだ人のために

1944年3月上旬、南太平洋のトラック島に海軍の主計中尉として赴任。
(……)
自分の死を覚悟した時、敵はトラック島を通り過ぎてサイパン島を攻撃。
(……)
「死んだ人のために、信念をもって生きる」。戦後に勤めた日銀は「封建的で身分に縛られた組織」。組合活動に参加し仕事を干された。「おれは妥協できなかった。好きな俳句を武器にして、社会への反骨を発散させたね」(俳人 金子兜太さん(2015年取材当時95))

2017年10月11日水曜日

へいたいさん、まんしうはさむいそうですね

昭和10年(1935)年、小学2年生だった作家の小沢信男氏は、戦地に送る慰問袋に入れるために学校で書かされた慰問文をこう書き出す。「お義理で書いている」ようで「勇ましくない」からか、採用されずに残った。
(後略)
――『折々のことば』より

時の最高指導者習近平が自らの都合に合わせ歴史観を定めているという実態

日本と中国が全面戦争に突入した起点は今から80年前、1937年7月の盧溝橋事件である。中国では45年までの8年を抗日戦の期間とする見方がこれまで定着していた。
ところが習近平政権は31年9月18日に起きた満州事変・柳条湖事件を抗日戦の起点と唱えるようになった。戦いの期間は6年延びて14年となる。(抗日戦争「8年」→「14年」)
(……)
その狙いは、自らが率いる共産党政権の正統性を強めることにあるようだ。
(……)
当時の日中関係を、14年戦争とだけ捉えると全体像を見落としがちだ。その間には関係改善を探り合った時期があり、全面衝突を避ける選択肢はあり得た。また当時の中国は内戦状態で、単純な日中対立の構図ではない。そもそも、共産党の抗日戦への貢献度は大きくない。
(……)
中国で問題なのは、ひとたび政権が見解を出せば、その歴史観に社会全体が縛られる点だ。すでに教科書の改訂が進み、異論を唱えた歴史学者の文章はネットから削除されている。
『2017年10月9日朝日新聞社説』

2017年10月8日日曜日

阿南陸相の秘書官であった林三郎元大佐は、

理性的に戦争を見てきた軍人らしく、いまはメッケル少将の研究に没頭している。白髪、七十二歳の学究は回想する。
《阿南大臣が自決された直後、東久邇(ひがしくに)内閣の陸相に決った下村定大将をお迎えに私は北京へ飛んだ。そのとき私は下村さんに「阿南さんの態度が最後まであいまいだったのは残念です。クーデターを計画して気負いたつ将校たちに対して、阿南さんが初めから計画をはっきり否定していたら、宮城事件のような不祥事は起らなかっただろう……と私には思われます」といったことを覚えている。(……)》
『一死、大罪を謝す』