太平洋戦争研究会
~太平洋戦争の真実を追う~
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2017年7月31日月曜日
昭和十九年五月二十七日、米軍ビアク来攻。
ビアクを失えばパラオは敵機の攻撃圏内に入り、また、ミンダナオ東方での機動部隊の行動は不可能となるので、「あ号作戦」が成立しなくなるおそれがあった。このようにビアクは、「戦局の分岐点たる関ヶ原」(宇垣纒『戦藻録』)と言われるまでに重要視されていた。
(中略)
連合艦隊が渾作戦に気を取られ、ビアク島に日本側の注意が注がれている間に、米軍の大部隊はビアク島のはるか東北一三〇〇浬の主目標サイパンに向かっていたのである。連合艦隊に見捨てられたビアク島約一万名の守備隊(支隊長葛目直幸大佐)は、奮戦むなしく玉砕し、八月中旬以降その連絡が途絶えた。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
2017年7月30日日曜日
鹿屋には正体不明で接触禁止の部隊が木造兵舎にいた。
米軍に大打撃を受けたミッドウェー海戦の敗残兵で、開戦半年で惨敗した事実を隠蔽するため隔離されていたと後日知った。(元海軍航空隊整備兵 宮川貞光さん)
(米軍の場合)強く批判されるのは無益な流血の戦闘を指揮した場合で、
タラワの上陸戦(昭和十八年十一月二十一日〜二十五日)はその例である。用兵を誤った指揮官は調査査問をうけ、場合によっては容赦なく更迭されている。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
「(前略)……ただ残念なことは、日本は経済的打撃からは
奇蹟的に立ち直りましたが、精神的打撃の傷あとは今なお深く、私達が戦い抜いてきた戦争も何故か国民が公には触れたがらない歴史、秘めたる歴史のページになっているのであります。いたずらに戦争の悲惨な面のみが強調され責任のみが追及される世相、価値判断が全く異なってしまった若者達に、あの戦争とそれを戦った人々のほんとうの姿を理解させることは困難だからです。……」(昭和四十六年五月十六日、佐世保に建立された重巡「羽黒」慰霊碑の除幕式における、生存者代表、元「羽黒」通信長元良勇氏による祭文)
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
重巡羽黒
2017年7月29日土曜日
太平洋戦争中期以降、アメリカはカーチスSB2Cヘルダイバー(三代目)を、
また日本はまず「彗星」、次に「流星改」を登場させた。特に流星改は艦爆と艦攻を合わせた性能を備える機体で、アメリカもダグラスBT-2Dスカイレイダーで艦戦兼艦爆兼艦攻を実現する。流星改がかろうじて実戦に参加したのに対し、スカイレイダーは太平洋戦争には間に合わなかった。
『歴史群像 OCT.2016』
太平洋戦争勃発時には、ダグラスSBDドーントレスが
艦爆の主力となっていた。
『歴史群像 OCT.2016』
2017年7月28日金曜日
戦後の小沢(治三郎)は、世に出ることを嫌い、
手記の類や談話の提供も拒絶して沈黙の人生を送った。それでも「あのとき(レイテ沖海戦で)、まじめに戦争をしたのは、西村一人だったよ」と漏らしている。小沢は言外に、「スリガオ海峡沖海戦」で戦死した西村祥治司令官以外の、レイテ沖で戦った自分自身を含めた各指揮官の働きを否定したのかもしれない。(手塚正己氏)
『歴史群像 OCT.2016』
西村祥治中将
2017年7月27日木曜日
(小沢治三郎中将は)終戦直前に米内光政海軍大臣から大将に推戴されたが、
「いま必要なのは位階ではない」と固辞した。硬骨漢として知られた小沢らしい心ばえが見て取れる。終戦直後、部下を道連れに特攻出撃した宇垣纒中将の行為を、軍令違反だと非難した。(手塚正己氏)
『歴史群像 OCT.2016』
2017年7月26日水曜日
皇太子が満十歳に達したのは昭和十八年(一九四三)十二月二十三日
であった。皇太子の意思にかかわらず(皇族身位令第十九条)、陸海軍の武官に任官しなければならない。しかし天皇はこのことを許さなかった。首相で陸相の東条英機は、天皇の前に進みでては「ぜひ軍人の士気を高めるために皇太子殿下に軍服を着せて任官してください」と申しでている。しかし天皇はそれにうなずかなかった。
『明仁天皇と裕仁天皇』
2017年7月25日火曜日
天皇家の「口承」
昭和天皇よりの日光にいる皇太子(平成天皇)への返信の手紙
昭和二十年九月九日
手紙をありがとう。
しつかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
(中略)
敗因について一言いはしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて
科学をわすれたことである
明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
(後略)
ここには天皇家の「父と子」のみに伝えられる口承の意味があった。それだけに重大な内容でもある。
『明仁天皇と裕仁天皇』
2017年7月22日土曜日
「いやしくも名将は特攻隊の力は借りないであろう。
特攻隊はまったく生還を期さない一種の自殺戦術である。こうした戦術でなければ、戦勢が挽回できなくなったということは明らかに敗けである。だが敗けるということは滅亡するということとは違うのであって、その民族が活動力さえあれば、立派な独立国として世界に貢献することもできるのであるが、玉砕してはもう国家そのものがなくなり、再分割されてしまうのだから、実も蓋もない」(『鈴木貫太郎自伝』より)
『大人の見識』
2017年7月16日日曜日
沖縄戦時、沖縄住民にとって、
前門の虎=米英軍
後門の狼=投降を許さない日本軍
2017年7月9日日曜日
直言居士がいない時代である。
立場よりも、正道を貫く人間の姿がない。組織の空気を読むばかりを美徳とする風潮が、いかに世を息苦しくしているか。(立野純二氏)
2017年7月8日土曜日
「いよいよ米軍の上陸だ。平素の訓練を発揮し、
御国(みくに)に御奉公すべきときが来た。ひめゆり学徒の本領を発揮し、皇国のために働いてもらいたい」(西岡部長)
と感慨にみちた面持ちで、わざわざ縁先からおりて一人一人にあいさつされた。乙女らの胸は、桜の校章で飾られてはりつめていた。
アルバムからはぎとった親兄弟、親しいお友達の写真を胸に抱きしめながら、部長住宅の西門から南風原陸軍病院へと出発したのは十時ごろだった。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』
艦砲射撃はじまる
(一九四五年三月二十四日)十時ごろだった。那覇署の警官が壕に息せききってかけこみ、
「艦砲だ!港川(みなとがわ)に艦砲がはじまった」
と告げた。いよいよ上陸だ。来るべきものが来た。私はじっとしておれず、壕を飛びだし、飛行機の飛びかう中を学校へと急いだ。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』
2017年7月7日金曜日
(学徒勤労令によって動員された)彼女たちは
かつてB29の爆撃の中で、「お母さん」と言いながら死んでいった友の断末魔の声を忘れることができないでいる。こんな苦しい叫びを聞いたことがあったであろうか。
『女子学徒の戦争と青春』
2017年7月2日日曜日
「二千万人の男を(特攻で)殺して、
だれがこの国を再建できるのか」(小沢治三郎)
『昭和の戦争』
小沢治三郎
ソ連の戦争犯罪、といえばシベリア抑留のみならず、
対日参戦後、制圧した満州などで民間の日本人や中国人、朝鮮人に対して行った暴行も残虐なものでした。特に強姦がひどかった、と帰国者の証言が残っていますね。
日本政府は、ロシアやアメリカに対して、原爆投下やシベリア抑留、満州での残虐行為などが戦争犯罪にあたる、として大きな声を上げたことはありませんよね。いさぎよい、といわれればそうかもしれませんが、敗戦国の戦争犯罪だけが恥ずべき犯罪で、戦勝国のそれは免罪されるということではないと思うんです。
それに、日本はなんといっても世界唯一の被爆国です。少なくとも原爆については、われわれの側が積極的に提起していく問題があると思います。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』
直言の男、石原莞爾
二人(石原と東条英機)の関係は、不仲という言葉では片付けられないほど険悪だったでしょう。
その会談で、当時首相だった東条が「ガダルカナルを救う方法は?」という意味の質問をしたところ、石原は「戦争の指導はあなたには出来ない。総理大臣をやめるべきだ」と言い放っています。私はこの会談の記録を二度、三度と繰り返してゆっくりと読んでみました。東条からあれほど苛酷な仕打ちを受け続けた石原ですが、私は彼の言葉に私憤の響きを感じませんでした。また東条も相手の言葉を冷静に受け止め、最後まで礼儀正しい態度で別れた、と報じられています。(角田房子氏)
『昭和の戦争』
石原莞爾
普段はきれい事を言っているくせに、
いざとなれば自分だけ安全地帯へ逃げ込む軍人は少なくないのですが、今村(均)さんの態度は筋が通っていました。今村さんはジャワから巣鴨プリズンへ移送されましたが、部下たちが劣悪な待遇におかれているのを知ってマヌス島の収容所へ志願して戻ります。マッカーサーはそれを知って、「日本にはまだ真の武士道が生きている」と声明を出していますね。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』
今村均
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