山城は巨大な火柱を夜空に噴き上げて消えたという。4日間で7千人とも1万人とも言われる将兵が命を落とした。作家の半藤一利氏は「大日本帝国の最終章を飾る雄大な葬送賦」と評した(『レイテ沖海戦』)
――『天声人語』2017年(平成29年)12月10日より
2017年12月10日日曜日
2017年8月12日土曜日
「機動部隊指揮官に報告。われレイテ湾に向け突撃、玉砕す」
西村(祥治)中将は平常とまったく変らない落ち着いた声でいった。これが司令官の声を聞いた最後のものであった。おそらくこの報告はブルネイ湾を出撃するときから、司令官が考えておられた文句であろう。いや、私はそう確信するのである。司令官はレイテ湾を死に処ときめていたにちがいない。
(……)
山城の乗員約千四百名、生き残ったものわずかに十名。また山城と行をともにし、ともにスリガオ海峡で沈んだ扶桑(乗員約千三百五十)の生存者も十名を数えるだけである。(戦艦山城主計長(大尉)江崎寿人氏)
『完本・太平洋戦争』
スリガオ海峡夜戦
(……)
山城の乗員約千四百名、生き残ったものわずかに十名。また山城と行をともにし、ともにスリガオ海峡で沈んだ扶桑(乗員約千三百五十)の生存者も十名を数えるだけである。(戦艦山城主計長(大尉)江崎寿人氏)
『完本・太平洋戦争』
スリガオ海峡夜戦
西村(祥治)艦隊の潰滅的な最後は、太平洋戦争における
最も無残な殲滅戦であったとされている。海峡の闇の中で、日本側は戦艦二隻、駆逐艦三隻を失い、戦死者約四〇〇〇名に及んだのに対して、米側の被害は魚雷艇一隻を失っただけで、戦死者は約四〇名にすぎなかった。この「スリガオ海峡夜戦」("The Battle of Surigao Strait")は、航空機を伴わない史上最後の艦隊決戦となった。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
西村祥治中将
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
西村祥治中将
2017年8月11日金曜日
(昭和十九年十月二十三日)〇六三〇前、一斉回頭で取舵をとって
左に変針していたその瞬間、(羽黒の)左舷側約四キロを進んでいた艦隊の中心、第四戦隊の方角に突然、黒煙が上がった。「空襲!」の声が響くが、機影は見えない。怖れていた敵潜水艦の襲撃に違いない。「配置ニ就ケ」(〇六二七)のブザーが唸る。分隊員と一緒に海軍体操をやっていた後甲板から、艦橋に駆け上がって見ると、左方先頭の旗艦「愛宕」は黒煙に包まれ、続く「高雄」は艦尾から煙を吹いて旋回しながら「舵故障」の信号を掲げている。
(……)
〇六四四、「羽黒」の左後方(一四〇度)に魚雷二本が走ってくるのを認めて「面舵一杯」で危うく回避したが、しばらくして後方に閃光が稲妻のようにきらめいた。約一キロ後を続航していた「麻耶」だ。火柱が消えた前部砲塔の上に這い上がった二、三人の姿が見えたが、瞬時に艦首と艦尾を突き立て合わせるようにして轟音とともに海中に没した(〇六四四・三〇秒)。
(……)
〇七〇二、旗艦「愛宕」は檣頭高く掲げた長官旗と共にその姿を没した。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
パラワン水道での「愛宕」被雷時の隊形
(……)
〇六四四、「羽黒」の左後方(一四〇度)に魚雷二本が走ってくるのを認めて「面舵一杯」で危うく回避したが、しばらくして後方に閃光が稲妻のようにきらめいた。約一キロ後を続航していた「麻耶」だ。火柱が消えた前部砲塔の上に這い上がった二、三人の姿が見えたが、瞬時に艦首と艦尾を突き立て合わせるようにして轟音とともに海中に没した(〇六四四・三〇秒)。
(……)
〇七〇二、旗艦「愛宕」は檣頭高く掲げた長官旗と共にその姿を没した。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
パラワン水道での「愛宕」被雷時の隊形
2017年8月2日水曜日
(井上成美大将と)同じく戦後、清貧のうちに八十歳で死んだ小沢治三郎提督の葬 儀
(昭和四十一年十一月十三日、死去は九日)には米国大使館駐在武官も参列し、モリソン博士も「偉大な戦略家であり船乗りであった小沢提督の死を悼む」という弔辞を寄せている。ニミッツ元帥は、「敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。小沢提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」と語っている。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
2017年7月30日日曜日
(米軍の場合)強く批判されるのは無益な流血の戦闘を指揮した場合で、
タラワの上陸戦(昭和十八年十一月二十一日〜二十五日)はその例である。用兵を誤った指揮官は調査査問をうけ、場合によっては容赦なく更迭されている。
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
「(前略)……ただ残念なことは、日本は経済的打撃からは
奇蹟的に立ち直りましたが、精神的打撃の傷あとは今なお深く、私達が戦い抜いてきた戦争も何故か国民が公には触れたがらない歴史、秘めたる歴史のページになっているのであります。いたずらに戦争の悲惨な面のみが強調され責任のみが追及される世相、価値判断が全く異なってしまった若者達に、あの戦争とそれを戦った人々のほんとうの姿を理解させることは困難だからです。……」(昭和四十六年五月十六日、佐世保に建立された重巡「羽黒」慰霊碑の除幕式における、生存者代表、元「羽黒」通信長元良勇氏による祭文)
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
重巡羽黒
『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』
重巡羽黒
2017年7月28日金曜日
戦後の小沢(治三郎)は、世に出ることを嫌い、
手記の類や談話の提供も拒絶して沈黙の人生を送った。それでも「あのとき(レイテ沖海戦で)、まじめに戦争をしたのは、西村一人だったよ」と漏らしている。小沢は言外に、「スリガオ海峡沖海戦」で戦死した西村祥治司令官以外の、レイテ沖で戦った自分自身を含めた各指揮官の働きを否定したのかもしれない。(手塚正己氏)
『歴史群像 OCT.2016』
西村祥治中将
『歴史群像 OCT.2016』
西村祥治中将
2016年11月20日日曜日
栗田部隊のレイテ泊地突入が、
はたして全海軍作戦にどれほどの貢献をおよぼしたかにはいろいろと議論があるにしても、その行動は、オトリ作戦の犠牲をまったくムダなものにしたことだけはたしかであろう。(元第一機動艦隊参謀・海軍大佐 大前敏一氏)
『激闘の空母機動部隊』
『激闘の空母機動部隊』
2015年7月1日水曜日
2015年6月20日土曜日
豊田(聨合艦隊司令長官)は
午後六時十三分、全作戦部隊に宛てて、
<天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ>
との激励文を打電した。
掛け声は勇ましいが、「天佑を確信し」という言葉に、日本海軍の末期的状態がよく表れている。もはや、作戦の成否は「天佑」すなわち神頼みだと言っているにひとしい。「武蔵」の生存者救助に当たった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄大尉は、その電令に接したとき、
「なんだこの命令は」
とがっかりしたと述懐している。武田は開戦以来、いくつもの海戦に参加してきたが、これほど場当たり的で具体性のない命令を受けたのは初めてだった。
『特攻の真意』
<天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ>
との激励文を打電した。
掛け声は勇ましいが、「天佑を確信し」という言葉に、日本海軍の末期的状態がよく表れている。もはや、作戦の成否は「天佑」すなわち神頼みだと言っているにひとしい。「武蔵」の生存者救助に当たった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄大尉は、その電令に接したとき、
「なんだこの命令は」
とがっかりしたと述懐している。武田は開戦以来、いくつもの海戦に参加してきたが、これほど場当たり的で具体性のない命令を受けたのは初めてだった。
『特攻の真意』
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