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2013年9月29日日曜日

敵機の主翼前縁いっぱいに十二・七ミリ機銃六挺の閃光が

走ったかと思うと、翼の下に機銃弾の薬莢が、まるですだれのようにザーッと落ちるのが見える。同口径の機銃を六挺も備えたF6Fの射撃の威力は、まさに「弾幕」と呼べるほどすさまじかった。

グラマンF6F ヘルキャット

三月二十一日、敵機動部隊を求めて、

鹿屋基地から七二一空(神雷部隊)の一式陸攻十八機が、零戦三十機に援護されて出撃した。陸攻のうち十五機は、機体の腹に人間爆弾「桜花」を抱いていて、これが「桜花」の初出撃だった。
陸攻隊指揮官の野中五郎少佐は隊員たちに、
「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海たらしめよ」
と訓示すると、乗機に向かって歩いていった。
機首に一・二トンもの爆薬を仕込んだ桜花を抱いた陸攻は、見るからに重そうにゆっくりと上昇していった。
「飛ぶのがやっとじゃないか。これで敵艦隊まで辿りつけるのか」

野中隊は、途中で待ち構えた敵戦闘機に陸攻全機が撃墜され、攻撃は失敗に終った。
野中が出撃前夜に、
「ろくに戦闘機もない状況ではまず成功しないよ。特攻なんてぶっ潰してくれ」
という言葉を遺していたことを進藤が知るのは、戦後になってからのことである。

「話せばわかる」「問答無用」

昭和七年五月十五日、五・一五事件。
内閣および重臣――例の「君側の奸」――はけしからん、あれを倒して暗雲を吹き飛ばし、もっとさわやかな日本をつくるべきだ、と犬養首相暗殺を決行。
海軍士官、三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山恪之、さらに陸軍士官学校の後藤映範、篠原市之助らで、靖国神社に集合し、午後五時半ごろ首相官邸に乗り込んで行き…

犬養さんが出てきて、
「なんだそういうことか、話せばわかるじゃないか」
と言った時に、
「問答無用」、ズドン。

満州事変

九月十九日午前一時過ぎ、関東軍は主力の奉天集中と、満鉄沿線の要地攻略・占領の命令を発し、軍司令部を奉天に進出させた。さらに、朝鮮軍に増援を要請した。朝鮮軍の増援は、本国の政府と天皇の反対によりストップがかけられたが、これに対して関東軍は再び謀略によって吉林に不穏な状態をつくり出し、居留民保護を名目として吉林に出兵した。吉林出兵によって満州南部が手薄となり、その危急を救うために朝鮮軍の増援を必要とさせたのである。
こうして二十一日午後、朝鮮軍は天皇の裁可も得ぬまま独断で越境したが、ついに政府も軍中央もこれを追認してしまった。
柳条湖事件は石原らの目論見どおり拡大し、満州事変となったのである。

独断で朝鮮軍を出動させ、「越境将軍」と呼ばれた林銑十郎

柳条湖事件

昭和六年(一九三一)九月十八日午後十時過ぎ、奉天の北方約八キロの柳条湖で満鉄の線路が爆破された。
中国軍の仕業とされた事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦参謀石原莞爾中佐らの謀略によるものであった。
柳条湖の線路爆破の後、付近で夜間演習中であった関東軍独立守備隊は中国軍から射撃されたとして、張学良軍の兵営、北大営を攻撃、占領した。

 板垣征四郎

石原莞爾

中村大尉事件

参謀本部作戦課員の中村震太郎大尉は対ソ作戦に備えた兵要地誌作成のため、井杉延太郎予備役曹長とともに変装して洮南地方を偵察旅行中であったが、現地の屯墾軍に捕まり、昭和六年六月二十七日殺害された。日本側が殺害の事実をキャッチしたのは七月中旬である。
石原莞爾らはこの事件を、満蒙問題解決のために実力を行使する好機ととらえた。だが、それは本国の政府も陸軍首脳も受け容れるところではなかった。

中村震太郎(左)と井杉延太郎(右)

万宝山事件

吉林省長春近辺の一小村、万宝山に借地して入植した朝鮮人農民が水田耕作のために灌漑水路をつくったところ、それが中国人の所有地を横切っていたため、両者の間に争いが起きた。中国人側は警察に訴え、朝鮮人側は日本領事館に応援を求め、ついに昭和六年(一九三一)七月二日、日本領事館警察が発砲する騒ぎとなった。この事件で死者は出なかったが、中国人が朝鮮人農民を襲撃し多くの犠牲者を出したと誇大に報道されたため、朝鮮では反中暴動が発生した。また、朝鮮での反中暴動を日本官憲による策謀と見て、反日の機運が高まった。

軍需資源を米英から輸入

することを前提にしていれば、それに制約され、提携関係も選択の余地なく米英側とならざるをえない。そのように提携関係においてあらかじめ選択を限定されれば、「国防自主権」、国防上の方針決定のフリーハンドを確保することができない。いわば国防的観点からみて国策決定の自主独立性が失われる。この点が、宇垣に永田が最も距離を感じ、反発していたところだった。

満州某重大事件

昭和三年(一九二八)、六月四日早朝、北京から奉天に戻る途中の張作霖の乗った特別列車が、京奉線と満鉄が交差する陸橋上で爆破された。瀕死の重傷を負った張作霖は二日後に死去した。張作霖爆殺は、関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によるもので、独立守備隊中隊長の東宮鉄男大尉が現場の指揮をとった。
昭和は"陰謀"と"魔法の杖"で開幕した。

2013年9月23日月曜日

女交換手真岡に散る

終戦の年の八月二十日、樺太の真岡郵便局で、押し寄せるソ連兵を前に、職務を遂行して散った九人の電話交換手の悲劇…
八月二十日の攻撃においては、日本軍の迎撃は、瞬時のうちに沈黙してしまった。あとは、無残な邦人虐殺が展開されていった。武器を持たない邦人は、ただ逃げるしかなかった。ソ連兵は、彼らの背へ、情け容赦なく、自動小銃の弾丸を食い込ませた。防空壕でふるえている者には、手榴弾が投げ込まれた。

九人の最期
「ソ連の兵隊が、続々と、こちらに上がって来ています。もう、みんな、交換台で倒れています。私も、だんだん目がみえなくなってきました。ながい間、お世話になりました。さようなら」
しっかり者だった伊藤千枝は、隣の泊居の局に、真岡の惨状を報告したあと、こういって通話を切ったという。
青酸カリによる自決であった。

三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)

の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。

当時日本軍が歩兵に持たせていた対戦車地雷

には二種あった。一つは戦車の機関部または横腹に吸いつかせる「破甲爆雷」で、いわゆる「アンパン」である。
もう一つは、棒の先に爆薬を装着した「棒地雷」で、それを敵戦車のカタピラにさし込む。カタピラが廻って、それを敷くと爆発する。

ドラグの水際陣地には日本の二十聯隊第三大隊

の兵士が置き去りにされていた。
敵が上陸を始めた時、初年兵たちは、不意に銃を捨てろと命令されて驚いた。帯剣もはずし、ガソリンを詰めたビール瓶(ずんぐりした形の四分の一リットル瓶である)を一つ右手に持ったままの軽装で、戦車に肉薄攻撃をせよというのである。

2013年9月22日日曜日

M4戦車、通称シャーマン戦車は

ヨーロッパ戦線では中型戦車だったが、レイテの日本兵には化物としか思えなかった。

2013年9月16日月曜日

編隊を組んで飛んでいたところ、

進藤の二番機、八並信孝一飛曹機が、進藤機に覆いかぶさるような妙な動きをする。バンクを振って定位置に戻るよう促しても、八並機は離れようとしない。八並は二十二歳、ガッチリとした体格の折り目正しい男で、腕も視力もよく、進藤が目をとめて列機に指名した搭乗員である。
ラバウルに帰ってすぐに、進藤は八並を呼びつけた。
「お前、どうして編隊を崩してあんな飛びかたをしたか」
すると八並は、
「敵機が上にいました」
という。進藤は驚いた。
「戦闘機か?」
「はい、P‐38でした。一機でしたが、優位の態勢から奇襲の機会を窺っているもののようでした。隊長にバンクで知らせましたが、気づいてもらえませんので、敵が撃ってきたら盾になるつもりで上についていました。ニューブリテン島が見える頃、敵機は諦めたのか引き返して行きました」
進藤は、穴があったら入りたい気持ちになった、と同時に、身を挺してでも指揮官機を守ろうとする八並の気魄と責任感に胸をうたれた。

「進藤大尉、ただいまから飛行隊長

として指揮をとる。諸君は八月以来、前線にあって奮闘し、まことにご苦労である。緒戦の華々しい戦闘に比べ、こんにちでは毎日が苦しい戦いの連続になっている。しかし、ここで持ちこたえなくては敵はさらに勢いを増してくるだろう。海軍戦闘機隊のモットーは編隊協同空戦だ。しかも搭乗員が戦果を挙げる陰には、整備員や兵器員といった裏方の努力が不可欠である。けっして一人の手柄を立てようなどとは思わず、より長く、より強く、一致団結して戦い抜くように」

2013年9月15日日曜日

二十年の春、

その頃の特攻機には戦果確認機はほとんどつけられませんでした。
フィリピンの時には必ず戦果確認機が出ていましたが、沖縄戦の頃には、そんなものを出していたら戦果確認機も撃墜されてしまうということで、まったく出されませんでした。
敷島隊の時に大西長官が言ったといわれる、お前たちの戦果は必ず上聞に達するようにするから安心しろという言葉は、とっくに反故にされていたのです。

2013年9月14日土曜日

今、思い返してもあのゼロには

悪魔が乗っていたと思う。
ゼロは低空ギリギリにやって来た。ほとんど海面すれすれだった。しかも空母の真後ろからだ。俺たちは近接信管付きの砲を撃ちまくったが、海面が電波を反射して、目標に到達する前に爆発してしまう。
ゼロが四〇〇〇ヤードまで近づいた時、四〇ミリ機銃が一斉に火を噴いた。たった一機の飛行機に何千発もの機銃弾が撃ち込まれるのだ。
ついにゼロが火を噴くのが見えた。
黒煙を吐いたゼロはいきなり急上昇した。機銃員たちは慌ててその後を追ったが、鋭い動きについて行けなかった。
ゼロは燃えながら上昇し、機体を捻って背面になった。そして空母上空に達すると、背面のまま、逆落としに落ちて来た。俺たちはなす術もなく、悪魔が上空から降りて来るのを見ていた。あんな急降下は一度も見たことがない。いや、燃える飛行機にあんな動きが出来るのか。
ゼロはまさに直角に落ちて来た。命中の瞬間、俺は目をつむった。

「今日の桜花の搭乗員に、

筑波での教え子がいた。出撃前に、彼は俺の顔を見て、××教官が援護して下さるなら安心ですと言った。しかし俺の目の前で、彼を乗せた一式陸攻は火を吐いて墜ちていった。中攻の搭乗員たちは俺に敬礼しながら墜ちていった」
「仕方がないと思います」
「仕方ないだと!
何人死んだと思ってる!直掩機は特攻機を守るのが役目だ。たとえ自分が墜とされてもだ」

小澤艦隊から岩井勉少尉

なども比島に飛んで来て、あわや特攻に出されるところだったと聞いている。しかし、二十年三月から始まった沖縄特攻では熟練搭乗員は出さなくなっていた。熟練搭乗員は教員や本土防衛に必要だったからだ。

熟練搭乗員が特攻に行かされることは稀でした。

十九年の比島方面では熟練搭乗員も何人か特攻を命じられていますが、翌二十年の沖縄戦になると、そうしたことはなくなりました。

進藤三郎少佐も立派な戦闘機隊指揮官だった。

進藤は零戦が中国大陸で華々しいデビューを飾った時の十三機の零戦の指揮官だった人だ。その後、ラバウルで戦い、マリアナやレイテを転戦し、終戦の年は鹿児島の二〇三航空隊の飛行長になっていたが、上層部の「全機特攻」の掛け声の中、一機の特攻機も出さなかった。

2013年9月12日木曜日

特攻に断固反対した美濃部正少佐

美濃部少佐は二十年の二月に、指揮官八十人余が参集して木更津で開かれた連合艦隊の沖縄方面作戦会議の席上、首席参謀から告げられた「全力特攻」の方針に真っ向から反対した男だ。
軍人は「上官の命令は朕の命令」と刷り込まれている。抗命罪で軍法会議にかけられれば死刑すらあり得る。だが美濃部少佐は死を賭して敢然と反対した。それどころか色をなして怒鳴りつけた上官に対して「ここにおられる皆さんに自ら突入出来る方がいるのか」と言い返した。そして「練習機まで特攻に出すのは言語道断。嘘だと思うなら、練習機に乗って攻撃してみられるとよい。私が全部零戦で叩き墜としてみせる」と言った。

「敷島の大和心を人とはば

朝日ににほふ山桜花」

本当は久納中尉こそが特攻第一号

ですが、その栄誉は彼に与えられませんでした。戦果確認が出来なかったこともありますが、もう一つの大きな理由は、久納中尉が予備学生出身の士官だったからです。海軍としては「特攻第一号」の栄誉はやはり海軍兵学校出身の士官にしたいということで、関大尉が第一号として発表されたのです。

2013年9月11日水曜日

関大尉の敷島隊が突入したのは

十月二十五日ですが、久納中尉の大和隊が突入したのは二十一日です。この日、大和隊も敷島隊も接敵出来ず、全機基地に引き返したのですが、久納中尉だけは帰還することなく、単機で敵を追い求め、ついに戻らなかったのです。

2013年9月10日火曜日

最初の特攻隊はレイテにおける関大尉の敷島隊

というのが一般に流布されていることですが、実は本当の特攻「ゼロ号」の男は同じレイテの大和隊の久納好孚中尉です。

特攻隊の英霊に曰す善く戦ひたり深謝す

  遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ

共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす