局長室の入口のドアは開けられ、入口近くに簀の衝立が立てられてあった。内部は透かして見える。
相沢は入口近くに持ってきたトランクを置き、将校マントもいっしょに置いた。マントは凶行後、返り血をあびた軍服をかくす用意である。衝立の向うに永田の姿が見えたので、軍刀を抜き、無言のままつかつかと衝立の右側から入った。
局長室の永田は二人の将校と話をしていた。一人が新見英夫東京憲兵隊長で、一人が山田長三郎兵務課長であった。新見は折から村中、磯部の「粛軍ニ関スル意見書」の印刷物を永田に見せて報告中だった。
正面に坐って二人と話をしていた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、椅子からすっくと起ち上がった。永田は難を避けるように二人の将校のほうへ寄った。
ところがその相沢に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさとその部屋を出て行ってしまった。つまり、相沢が抜刀して闖入したのと入れ違いに退室したのである。当然にあとで大問題となった。
さて、軍刀を振るって永田に逼った相沢は椅子を跨いだのか、あるいは飛び越えたのか自分ではおぼえていないが、その一撃を永田の右肩に加えた。手ごたえがない。切尖は軍服と皮膚の表面を浅く切り裂いたにすぎなかった。
横の新見憲兵隊長がこの危急を見て机の左側から相沢に抱きつこうとした。
彼は相沢に体当りし、咄嗟に左手を上げて無意識のうちに永田を庇ったために相沢の刃を受け、左上膊に骨膜に達する深傷を負った。新見は倒れ、意識を失った。
その間に永田は隣室の軍事課長室に逃げるつもりでドアのところまで来た。
相沢はドアにぴったり身体をつけた永田を上から斬り下ろすことが出来ないので、刀に左手を添えて背中から突き刺した。これが永田の致命傷となった。相沢も左手の指四本の根もとに骨まで達する傷を負うた。剣道四段の相沢も夢中だったのだ。
永田はその場に倒れたが、なおも気丈に起ち上がった。彼はよろよろしながら応接用のテーブル付近まで行ったが、そこで力尽きて仰向けに倒れた。相沢は切尖を倒れた永田の右のこめかみのところに加え、それから、武士の作法通り、とどめの一刀を咽喉に突き刺した。
この間、一分とはかかっていない。相沢も声を発せず、永田も沈黙のままだった。
永田にとどめを差した相沢が刀を鞘に収め、左手の傷口を自分のハンカチで縛ったのち、廊下に出てマントを着けたときは誰もいなかった。彼は右手にトランクを提げ、凶行のときにとばした自分の帽子にも気づかず、悠々と山岡整備局長の部屋に行った。
山岡の前にきた相沢は、
「閣下。永田閣下に天誅を加えてきました」
といった。
永田軍務局長の遺体写真、日本刀で切りつけられた無残な遺体
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