ミッドウェー作戦では、出撃当初から敵艦隊は出現しないだろうとの先入観が強く働いて、第一航空艦隊の作戦計画が途中でどんどん変更されていった。
作戦変更のなかで注目されるのは、索敵計画の変更である。
第一航空艦隊(南雲機動部隊)司令部では、この作戦は味方の基地航空部隊の届かない海面で行なわれるので、偵察機の索敵力を高める必要のあることを痛感した。
そこで燃料の増加タンクを装着、四〇〇カイリ(約七四〇キロ)進出して索敵できるように改造した艦攻一〇機を準備し、また航続力の大きい新鋭二式艦偵(彗星に増槽、高度三〇〇〇メートル、速力二一〇ノットで航続力二一〇〇カイリ)二機を臨時に「蒼龍」に搭載するなど、索敵、偵察を重視する処置をとったのであった。
準備としては、まずまずの処置である。これを予定どおり運用しておけばよかったのだが、その後、状況判断がしだいに変化してきて、攻略作戦を実施しているときは、敵の空母は出現しないと判断されるようになってきた。
そのため一航艦司令部では、当初の念入りな索敵計画を変更し、単に”念のため”に索敵するという軽いものにしたのであった。そして増槽装備をほどこした艦攻のほとんどを、索敵任務からはずして攻撃隊に回してしまったのである。
日本海軍では索敵のしかたとして、一段索敵と二段索敵の二つの方法を採用していた。
一段索敵というのは、黎明時に全索敵機を同時に発進させる方法である。したがって一回きりの索敵法である。
二段索敵とは、黎明前に第一次索敵隊を発進させ、間を置いて黎明時に第二次索敵隊を発進させるという二段構えのものである。あとから発進した索敵隊は、最初の索敵隊が暗いため見逃した近距離を、重点的に索敵するのを心構えとされた。
一段索敵の場合は、使用する機数が一回だけなので少なくてすむが、明るくなってから発進させるので、進出の先端付近の索敵が遅れるという欠点がある。万一、敵がいた場合は、味方のほうが先に発見されて、先制攻撃をうけるおそれがある。
これに対して二段索敵は、全索敵海面の索敵が早くできるが、使用機数が一段索敵の約一・五倍とふえるため、攻撃隊の機数がそのために割愛されるという欠点があった。
ミッドウェー作戦が開始され、作戦海域に進出したとき、一航艦司令部は、一段索敵を採用して”念のため”程度の索敵を実施した。使用機は零式水上偵察機五機と九七艦攻二機の合計七機である。進出距離は三〇〇カイリ、測程(帰りの幅)六〇カイリで扇型に発進させた。
この計画では、先端での隣りの機との間隔が一二〇カイリ(約二二二キロ)となり、これは開きすぎである。粗雑な計画といわねばならない。
情報を甘くみていたのは、一航艦の司令部だけではなかった。いわば全軍のタガがゆるんでいた。
午前一時三十分に全索敵機が発進すべきところ、時間を守ったのは「赤城」機、「加賀」機、「榛名」機のみで、「筑摩」機の二機は五分遅れ、「利根」一号機は十二分遅れ、同四号機にいたっては三十分遅れだった。
そのうえ「筑摩」一号機は、雲上飛行を行なったり、「利根」四号機は、進出距離を勝手に縮めるなど、真剣味がないばかりか、命令違反の行動をとっている。
ことに敵の水上部隊の発見が遅れて、南雲長官の戦闘指揮に大きな影響を与えたのは、「筑摩」一号機の雲上飛行である。
同機が雲を避けて雲下飛行を行なっておれば、午前三時ころ(ミッドウェー島空襲の三十分前)にはスプルーアンス少将の率いる「エンタープライズ」と「ホーネット」基幹の機動部隊を発見できたはずである。
そうなれば、南雲長官の兵装転換(四時十五分に下令)の問題も起きなかったし、かえって日本軍が敵機動部隊を先制攻撃して、これを全滅させることができたものと考えられる。
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