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2013年11月3日日曜日

日本軍隊用語集 ― 参謀(共)

参謀(さんぼう)

はかりごとに参画する、つまり指揮官を助けて作戦計画案を練る参謀の職名は、中国から伝わり日本でも古くから使われている。
秀吉の竹中半兵衛、信玄の山本勘助といった知恵袋は「軍師」であったが、維新戦争には板垣(退助)参謀や黒田(清隆)参謀の名があちこちに見え隠れしている。
英語では民間と同じスタッフ(STAFF)、自衛隊では参謀の言葉をきらって「幕僚」となっている。
すべての参謀は指揮官に属するが、内部には統轄者としての参謀長、次席の高級参謀先任参謀、仕事別に作戦参謀情報参謀通信参謀後方参謀(兵站)などがあり、政府や陸海軍省などの連絡役の政務参謀などもあった。

明治のはじめ、陸軍は強力なプロシア陸軍の参謀制度を採用して、モルトケ将軍の愛弟子のメッケル少佐を乞い受け、陸軍大学校をつくって参謀を育成し始めた。メッケル少佐の教育方針は机の上でなく実地体験主義で、ぞくぞくと生まれた参謀たちが日清・日露戦争で大活躍した。大山巖満洲軍総司令官を助けた児玉源太郎参謀長はその代表である。

参謀たちが、ときに司令官の委任状をもち、ときにはそれなしに司令官の代わりに前線に出かけて指揮権を発揮する。
もともとスタッフであって、何の指揮権もないからこれは明らかに専断であり、下克上であった。しかし、司令官はこれを”日本的名将”になろうとして黙認し、一部の骨太な者を除いて前線の部隊長たちはこれに従った。士官学校のはるかに先輩の師団長中将が、若い中佐参謀に命令されて動くようなことになる。

戦後、参議院議員となりベトナムで行方不明となった辻政信参謀などは、ノモンハン戦、シンガポール戦、ガダルカナル戦、北部ビルマ(ミャンマー)戦などで、独断で次々と軍司令官命令を出して前線部隊をキリキリ舞いさせた。
本来参謀には指揮権もない代わりに責任もないから、敗戦の責任はいつも軍司令部がとらせられ、辻参謀はその行き過ぎを罰せられることもなかった。

終戦時に近衛師団長の森中将を斬殺して偽の師団命令をつくり、クーデターを起こそうとした近衛師団の参謀たちもそのパターンである。

サイパン戦の指導をした晴気中佐が、その責任を感じて市ヶ谷の陸軍省の庭で腹を切ったことなどは例外中の例外であった。

戦後多くの敗因追及のなかにも、この日本陸軍の参謀制度の欠陥をその一つにあげる人もある。

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