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2013年11月30日土曜日

大型汽船であった。マストに英国旗

をかかげているが、眼鏡でとらえたところでは清国陸軍の将兵を満載していることがわかった。
「ただちにとまれ。ただちに投錨せよ」
と、浪速は信号をあげた。
浪速の艦長は大佐東郷平八郎であった。
かれは英国船長に対し、
「その船をすてよ」
と、信号で命じた。
ところが高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険をしらせる赤旗をかかげ、そのあと、撃沈の命令をくだした。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。
高陞号はしずんだ。
船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵はほとんど溺死した。
この事件はすぐ上海電報によって英国に打電され、最初の報道はきわめて簡単であったために英国の朝野を激昂させたが、やがて詳細がわかるにつれて浪速艦長東郷平八郎のとった処置は国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった。

(秋山)好古はやむをえなかった。

先祖代々禄を食んできた恩というものが旧藩士にはある。
「渡仏します」
と、無造作にいった。いった瞬間、陸軍における栄達をあきらめた。
そういういきさつがあって、秋山好古は明治二十年七月二十五日、フランスへむかうべく横浜を出帆している。

2013年11月24日日曜日

フィリッピンの戦線は後退

につぐ後退である。米軍は三日マニラに突入したと。きょうあたりすでに完全占領されたのではあるまいか。新聞には、「敵に大出血を与う」としきりに出ているが、なにほどの損害もあたえ得ず後退していることは、現地はむろん知っており、新聞記者も知っており、大本営も知っている。要するに誰も信じてないことを、「大出血々々々」と日本中で言い合っているのだ。

兵術の時間、「銀河」が

期待をうらぎってあまり役に立たないというはなしを聞き、がっかりした。一式陸上攻撃機は其の形状から「葉巻」と呼ばれていたが、此のごろではみんな、マッチといっている。すぐ火がつくからだ。しかし「銀河」の搭乗員のなかには、「一式陸攻の方がまだましだ」との声があるそうで、整備がむずかしく、始終事故をおこしているという。これは出水で自分たちがたびたび実際に見たところでもある。

比島戦で第一航空艦隊が出撃させた

神風特別攻撃隊というのは、異例の攻撃部隊で、みんな戦闘機に特殊爆装をして、飛行機ごと体あたりをしたのだという。
神風隊の指揮官S(関)大尉は。ここ(宇佐海軍航空隊)の艦爆出身で、われわれが来るすこしまえに宇佐を出て行ったのだそうだ。別府の千疋屋では神風隊のニュースを聞いて、ついこのあいだ、「俺が死んだら、汁粉と果物をそなえてくれ」と言っていらしたのにと、女たちは泣いていたとか。

いまとなっては、真珠湾の戦果は日本を仇にした。

ひとつには「リメムバア・パール・ハーバー」の合言葉を敵にあたえて全アメリカを団結させ、ふたつには海軍の自郎自大の風を生ぜしめて、「沈黙の海軍」は消滅した。新聞の狂態――討ちてしやまん、見敵必殺、鬼畜米英等、内容空疎な言葉の安売りを、中央の海軍が煽動しているのは、なんということであろう。「サイレント・ネイヴィ」という言葉は、いまや「チャタリング・ネイヴィ」とでも置きかえるがよい。
海軍のよき伝統は、ただ其の形骸の旧套墨守となって、精神は失われた。

志望機種の調査があった。

自分は第一志望艦上攻撃機、第二志望陸上攻撃機。要するに魚雷を抱いてゆく決心である。われわれがやらなければ、けっきょく誰もやるものはありはしない。敵は大宮島(グアム)にあがった。パラオにもやって来た。昨日は大連が空襲を受けたらしい。あすから第一分隊と第八分隊は夜間飛行がはじまる。夜間飛行といえば、もう終極の課目である。短時日のあいだにわれわれも進んで来たものだ。静かに死の用意をせよ。

2013年11月20日水曜日

最前線特攻基地知覧「なでしこ隊」

昭和二十年、最前線特攻基地知覧。
出撃命令が出るまでの何日か、娑婆の最後のひとときの世話をしたのが、地元の知覧高等女学校の女学生たち「なでしこ隊」だった。
陸軍の指定食堂「富屋食堂」の「特攻の母」鳥浜とめさんの娘さん、礼子さんもその中にいた。
特攻隊員たちは、女学生たちの振る桜の小枝と日の丸に送られ、何度も何度も振り返りながら、標高約千メートルの開聞岳を越え、沖縄に向け旅立った。
二度と帰らぬ死装束の出撃だった。

2013年11月19日火曜日

東條(英機)にとっては、石原(莞爾)の「五族協和」

「王道楽土」「東亜連盟」の思想などは、共産主義とおなじく、毒虫であった。
東條は、日本が東亜の盟主、つまりは支配者になるべきだと信じて疑わなかった。
石原と正反対の思想といえる。

2013年11月17日日曜日

着陸時五メートルの引きおこし、

これがやはりいちばんむずかしい。陸軍機とちがって、母艦の発着をやるたてまえから、海軍機は五メートルで引きおこして失速させ、尻を下げた三点姿勢で着陸しなくてはいけないのだ。なんどやっても前車輪着陸になる。充分慣熟しなくてはならない。

2013年11月14日木曜日

責任なき戦場

作家の高木俊朗氏の名著『インパール』の中に、次のような記述がある。

「親愛なる日本の兵隊さんだけに聞いていただく放送です。ばかな将校は聞かないで下さい。では、音楽をお聞かせしましょう」
つづいて、レコードが鳴りはじめた。凄惨な戦場に、はなやかな音楽が流れる。『東京音頭』である。谷の下で、兵隊が顔を見合わせながら聞く。
――ヤアト、ナアソレ、ヨイヨイヨイ
にぎやかな囃子が終ると、
「あなた方は、部隊名を隠しているが、われわれはよく知っています。あなた方は弓第二百十四連隊、白虎部隊という別名を持った勇敢な部隊です。あなた方はインパールに行くつもりで、ここまできました。しかし、われわれは、おやめなさいと忠告をします。ムダグチはインパールを包囲したといっていますが、それはヨタです。烈はコヒマでばらばらになっています。コヒマにいるのは英印軍です。祭はほとんど壊滅しました。祭の一個大隊は三十五名となり、軍曹が大隊を指揮しています。これを皆さんは、どう考えますか。これは鉄と肉の戦いです。日本軍得意の肉弾も、鉄の壁、鉄の戦車、飛行機には、まったく勝ち目のないことは、すでに、皆さんがよくごぞんじでしょう。ところで、もう一度、音楽をお聞かせしましょう」
声をのんだ沈黙の空気のなかに、静かな曲が流れ出す。
――待てどくらせど、こぬひとを……。

この短いエピソードのなかに、インパール作戦で日本軍の陥った状況が象徴的に表されている、と私は思った。文中にある弓、祭、烈というのは、この作戦に参加した第三三師団、第一五師団、第三一師団のそれぞれの呼称である。また、「ムダグチ」とあるのは、この三個師団を指揮した第一五軍司令官・牟田口廉也中将のことである。

2013年11月10日日曜日

江田島海軍兵学校 五省

一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
真心に反する点はなかったか
一、言行に恥づる勿かりしか
言行不一致な点はなかったか
一、気力に缺(か)くる勿かりしか
精神力は十分であったか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
十分に努力したか
一、不精に亘(わた)る勿かりしか
最後まで十分に取り組んだか

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第2夜「邂逅」 - YouTube

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2013年11月9日土曜日

▶ 日本テレビ開局55年記念番組 東京大空襲 第1夜「受難」 - YouTube

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「長官一行の陸攻二機、

午前七時四十分ごろ、P38十数機と交戦、二番機はモイラ岬海上に不時着、参謀長、艦隊主計長(いずれも負傷)、操縦員一名救出、一番機はブイン西方約十一マイルの密林中に火を噴きつつ浅き角度にて突入せるものの如く捜索手配中」

2013年11月4日月曜日

近藤泰一郎は、「死ぬ気で、

――少なくとも死んでもいいという気持で出て行かれたと思いますね。陸軍で言えば敵の歩兵の鉄砲玉がポンポン飛んで来るようなところへ、わざと出て行ったんですから」
と言っている。

高木惣吉は、「山本さんのあと

聯合艦隊の指揮をとれる人は、山口(多聞)さんか小沢(治三郎)さんしかいないが、山口さんは先にミッドウェーで亡くなったし、海軍の機構は今もって年功序列の金しばりで、これはもうおしまいだ」
と、はっきり思ったそうである。

2013年11月3日日曜日

実をいうと、山本の方は、辻政信を

あまり信用していなかった。辻が、戦況が思わしくなくなると、中央連絡などと称して逃げ出してはスタンド・プレイをやっているのを、苦々しげに、
「あんな者をのさばらせておくから駄目なんだ」
と言っていたことがあるそうである。

笹川良一は、日本の右翼の中で

たった一人親英米の腰抜けとされていた山本をかばった人であった。山本の紹介状をもらって中国へ出かけた折、笹川は南京で、総軍の参謀をしていた辻政信に威勢のいい話を聞かされたことがあった。辻が、汪政権の顧問役の、のちの大東亜大臣青木一男と口論になり、ぐずぐず言ったらぶった切ると軍刀をがちゃつかせたら、青木が青くなって逃げて行った、弱い奴だと、辻が笑っていたという話である。
「それで、その時青木は、武器は何を持っとったんや?」
と笹川は聞いた。
「で、青木が丸腰で、あんたの方は、何を持ってた?」
「軍刀とピストル持ってる人間が、丸腰の人間脅したら、相手が青うなって逃げて行くのはあたり前で、そりゃ、あんたの方がよっぽど弱虫やないか」
と彼は辻に言った。
山本は笹川が笹川流の一種の是々非々で、誰にでもこういう風に思ったことを言う点、それから、航空に強い関心を持っている点を買っていたらしい。

日本軍隊用語集 ― 参謀(共)

参謀(さんぼう)

はかりごとに参画する、つまり指揮官を助けて作戦計画案を練る参謀の職名は、中国から伝わり日本でも古くから使われている。
秀吉の竹中半兵衛、信玄の山本勘助といった知恵袋は「軍師」であったが、維新戦争には板垣(退助)参謀や黒田(清隆)参謀の名があちこちに見え隠れしている。
英語では民間と同じスタッフ(STAFF)、自衛隊では参謀の言葉をきらって「幕僚」となっている。
すべての参謀は指揮官に属するが、内部には統轄者としての参謀長、次席の高級参謀先任参謀、仕事別に作戦参謀情報参謀通信参謀後方参謀(兵站)などがあり、政府や陸海軍省などの連絡役の政務参謀などもあった。

明治のはじめ、陸軍は強力なプロシア陸軍の参謀制度を採用して、モルトケ将軍の愛弟子のメッケル少佐を乞い受け、陸軍大学校をつくって参謀を育成し始めた。メッケル少佐の教育方針は机の上でなく実地体験主義で、ぞくぞくと生まれた参謀たちが日清・日露戦争で大活躍した。大山巖満洲軍総司令官を助けた児玉源太郎参謀長はその代表である。

参謀たちが、ときに司令官の委任状をもち、ときにはそれなしに司令官の代わりに前線に出かけて指揮権を発揮する。
もともとスタッフであって、何の指揮権もないからこれは明らかに専断であり、下克上であった。しかし、司令官はこれを”日本的名将”になろうとして黙認し、一部の骨太な者を除いて前線の部隊長たちはこれに従った。士官学校のはるかに先輩の師団長中将が、若い中佐参謀に命令されて動くようなことになる。

戦後、参議院議員となりベトナムで行方不明となった辻政信参謀などは、ノモンハン戦、シンガポール戦、ガダルカナル戦、北部ビルマ(ミャンマー)戦などで、独断で次々と軍司令官命令を出して前線部隊をキリキリ舞いさせた。
本来参謀には指揮権もない代わりに責任もないから、敗戦の責任はいつも軍司令部がとらせられ、辻参謀はその行き過ぎを罰せられることもなかった。

終戦時に近衛師団長の森中将を斬殺して偽の師団命令をつくり、クーデターを起こそうとした近衛師団の参謀たちもそのパターンである。

サイパン戦の指導をした晴気中佐が、その責任を感じて市ヶ谷の陸軍省の庭で腹を切ったことなどは例外中の例外であった。

戦後多くの敗因追及のなかにも、この日本陸軍の参謀制度の欠陥をその一つにあげる人もある。

戦訓16 ― 被害対策の不備

日本海軍は、攻撃力を発揮するための訓練や戦策は徹底的に行なってきたが、防御については一般に関心が薄かった。
艦艇についても、敵弾が命中して被害が生じた場合、その損害をいかに最小限に食い止めるか、どのように応急処理をほどこすべきかなど、被害局限の研究がきわめて不足していた。
そうした研究不足のツケが、ミッドウェー海戦での四空母の被害に現われたのである。
とくに空母の飛行甲板が損傷したときの応急修理が、日本海軍ではほとんど研究されていなかった。また、爆弾が命中したことを想定した訓練も行なっていなかった。
これに対して、米空母の被害対策は念入りに研究され、消火対策や応急修理などの準備は格段に進んでいた。
もっとも典型的な例は、空母「ヨークタウン」の場合、この海戦でも珊瑚海海戦のときでも、被爆して火災となったが、いずれも消火に成功したばかりか、飛行甲板の応急修理を行なって、短時間のうちに飛行機の発着艦を可能にしている。
これに対して日本軍の四空母は、応急修理はおろか、火災を鎮火することもできなかった。「飛龍」の場合は消火に成功していたなら、艦を救うことができたと思われる。

戦訓15 ― 欠けていた空母の防御法

「空母は卵を入れた籠のようなもので、一発の爆弾があたれば、搭載機はつぎつぎに誘爆を起こして、結局ぜんぶ破壊されてしまう」
ところが、ミッドウェー海戦で、日本海軍にはその防御システムが皆無に近い状態であったことに初めて気づいたのであった。
空母を防御する対策としては、レーダーの開発、見張り機関の強化、上空警戒機の性能や機数、直衛艦の数、対空砲火の精度やその数など、これらを一元的に統制する指揮機関と通信施設が要求されるのだが、そのほとんどが、日本海軍には欠けていたし不十分であった。

防空戦闘のさい、無線電話は装備しているものの、雑音がひどくてほとんど実用にならなかった。
ミッドウェー海戦での南雲部隊は、まだレーダーを装備していなかった。
当時の一航艦の兵力は空母四隻を中心に戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻である。空母の直衛を考えると、来襲敵機を一刻も早く発見するために、十分遠方に警戒艦を派出することはできなかった。
各空母がもっている戦闘機は一八機ずつである。このうち半数は第一次攻撃隊で出撃し、残りの半数は第二次攻撃隊用である。その中から三機だけ割愛して上空警戒にあげていた(合計一二機)という情況なので、十分な見張りはできなかった。
そこへ敵機が来た。上空警戒機だけでは足りないので、残りの戦闘機も全機が飛び上がって防空戦を展開した。このため、各空母とも飛行甲板を上空警戒機の発着に専用される結果となり、その後の攻撃準備に大きな支障をあたえたのである。

ミッドウェー海戦によって、日本軍は初めて空母部隊の運用法を学んだのであったが、時すでに遅かった、といえよう。

2013年11月2日土曜日

参謀長の草鹿龍之介は、その著「聯合艦隊」

の中で、南雲が、
「参謀長、君はどう思うかね。僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもう少し気を強くして、きっぱり断わればよかったと思うが、一体出るには出たがうまく行くかしら」
と言ったと書いている。

「過去九ヶ月間の交渉を通じて

自分は一と言の虚言も述べなかった。それは記録が証明するだろう。自分の公職生活五十年の間、自分は未だかつて、このような恥ずべき偽りと歪曲とに充たされた文書を見たことが無い」
と言った。
野村、来栖の両大使は、無言のまま、ハルとつめたい握手を交わして、国務省を退出した。

南雲部隊が帰途についたことを知った「長門」の

司令部では…
幕僚たちはほとんど全員一致で、再攻撃の提案をすることになった。
山本はこれに対し、
「いや、待て。むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に委せておこう」
と言い、
「やる者は言われなくたってやるサ。やらない者は遠くから尻を叩いたってやりゃしない。南雲はやらないだろ」
と言ったと伝えられている。

日本軍隊用語集 ― 元帥(共)

元帥(げんすい)

この帥の字は、師団・師弟・師範などのツクリが一本多い師の字とよくまちがえられ、師は常用漢字にあるが、ほとんど使われない帥のほうは入っていない。
辞典によると、帥とは①ひきいる、②したがう、と正反対の二つの意味をもつ妙な字で、将帥(将軍)、帥先(みちびく)などとともに高級軍人を表わす語群である。

一八九八(明治三一)年一月、明治天皇は「元帥府設置の勅語」を下し、”特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大将ノ中ニテ老巧卓抜ナル者ヲ簡選シ朕ガ軍務ノ顧問タラシメ”と定めた。選ばれた大将が天皇側近のこのグループに入ることが、”元帥府ニ列セシメ”となる。
これによれば最高軍事顧問官なのだが、一般の政治・行政については元首相や元議長からなる「枢密院顧問官」があり、軍事についても元陸海軍大臣や参謀総長・軍令部総長などの将官からなる「軍事参議官」というのがあったから、この元帥府は意地悪くいえば、功績のある老陸海軍大将の名誉ある隠居所のようなものであろう。

中将までは定年制があり、これに達すると退役や予備役に回されるが、大将は生涯死ぬまで現役で、大将の一つ上級の元帥も現役となる。
明治憲法によれば全軍の最高指揮官は天皇その人であったから、天皇は大将でも元帥でもなく大元帥であり、大元帥陛下がその代名詞でもあった。

日本では名誉階位であったから、日露戦争後の論功行賞で手柄を決めたときに、陸軍の大山総司令官、黒木第一軍司令官、奥第二軍司令官、野津第四軍司令官、海軍の東郷連合艦隊司令長官が元帥に昇進した。
この中で一人、第三軍司令官の乃木大将だけが旅順攻撃の損害があまりに多かったためにその選にもれた。後日、乃木大将は明治天皇のあとを追って自刃したが、選にもれた口惜しさもその一因であったとする俗説もある。

戦訓14 ― 不用意な索敵計画の変更

ミッドウェー作戦では、出撃当初から敵艦隊は出現しないだろうとの先入観が強く働いて、第一航空艦隊の作戦計画が途中でどんどん変更されていった。
作戦変更のなかで注目されるのは、索敵計画の変更である。
第一航空艦隊(南雲機動部隊)司令部では、この作戦は味方の基地航空部隊の届かない海面で行なわれるので、偵察機の索敵力を高める必要のあることを痛感した。
そこで燃料の増加タンクを装着、四〇〇カイリ(約七四〇キロ)進出して索敵できるように改造した艦攻一〇機を準備し、また航続力の大きい新鋭二式艦偵(彗星に増槽、高度三〇〇〇メートル、速力二一〇ノットで航続力二一〇〇カイリ)二機を臨時に「蒼龍」に搭載するなど、索敵、偵察を重視する処置をとったのであった。
準備としては、まずまずの処置である。これを予定どおり運用しておけばよかったのだが、その後、状況判断がしだいに変化してきて、攻略作戦を実施しているときは、敵の空母は出現しないと判断されるようになってきた。
そのため一航艦司令部では、当初の念入りな索敵計画を変更し、単に”念のため”に索敵するという軽いものにしたのであった。そして増槽装備をほどこした艦攻のほとんどを、索敵任務からはずして攻撃隊に回してしまったのである。

日本海軍では索敵のしかたとして、一段索敵と二段索敵の二つの方法を採用していた。
一段索敵というのは、黎明時に全索敵機を同時に発進させる方法である。したがって一回きりの索敵法である。
二段索敵とは、黎明前に第一次索敵隊を発進させ、間を置いて黎明時に第二次索敵隊を発進させるという二段構えのものである。あとから発進した索敵隊は、最初の索敵隊が暗いため見逃した近距離を、重点的に索敵するのを心構えとされた。

一段索敵の場合は、使用する機数が一回だけなので少なくてすむが、明るくなってから発進させるので、進出の先端付近の索敵が遅れるという欠点がある。万一、敵がいた場合は、味方のほうが先に発見されて、先制攻撃をうけるおそれがある。
これに対して二段索敵は、全索敵海面の索敵が早くできるが、使用機数が一段索敵の約一・五倍とふえるため、攻撃隊の機数がそのために割愛されるという欠点があった。

ミッドウェー作戦が開始され、作戦海域に進出したとき、一航艦司令部は、一段索敵を採用して”念のため”程度の索敵を実施した。使用機は零式水上偵察機五機と九七艦攻二機の合計七機である。進出距離は三〇〇カイリ、測程(帰りの幅)六〇カイリで扇型に発進させた。
この計画では、先端での隣りの機との間隔が一二〇カイリ(約二二二キロ)となり、これは開きすぎである。粗雑な計画といわねばならない。

情報を甘くみていたのは、一航艦の司令部だけではなかった。いわば全軍のタガがゆるんでいた。
午前一時三十分に全索敵機が発進すべきところ、時間を守ったのは「赤城」機、「加賀」機、「榛名」機のみで、「筑摩」機の二機は五分遅れ、「利根」一号機は十二分遅れ、同四号機にいたっては三十分遅れだった。
そのうえ「筑摩」一号機は、雲上飛行を行なったり、利根」四号機は、進出距離を勝手に縮めるなど、真剣味がないばかりか、命令違反の行動をとっている。

ことに敵の水上部隊の発見が遅れて、南雲長官の戦闘指揮に大きな影響を与えたのは、摩」一号機の雲上飛行である。
同機が雲を避けて雲下飛行を行なっておれば、午前三時ころ(ミッドウェー島空襲の三十分前)にはスプルーアンス少将の率いる「エンタープライズ」と「ホーネット」基幹の機動部隊を発見できたはずである。
そうなれば、南雲長官の兵装転換(四時十五分に下令)の問題も起きなかったし、かえって日本軍が敵機動部隊を先制攻撃して、これを全滅させることができたものと考えられる。

戦訓13 ― 偽電にひっかかる

緒戦当時、アメリカの情報収集能力や暗号解読の技術は、日本側が考えていた以上にすぐれたものがあった。
昭和十七年四月の初旬ころ、南方作戦を終えた日本艦隊が、本土に集結するらしいとの情報を米軍は入手した。
つまり四月五日にミッドウェー作戦が正式決定した直後、早くも米軍は日本海軍の行動変化をキャッチしているのである。
四月末ごろから、ハワイの情報隊は、日本海軍の暗号電報をキャッチして、断片的に解読していた。
その後、暗号解読が進むにつれて、日本軍の企図している作戦の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。暗号の中にAFという符号がだんだん多くなってきた。
情報隊は古い資料などを調査して、これはミッドウェーを指している公算が大きいと判断した。また暗号のなかにAQ、AOBなどの符号があった。情報部は、これはアリューシャン方面の島を指しているのではないかと推測した。この判断は正しく、日本軍はAQをアッツ島、AOBはキスカ島を指す符号として用いていた。
いまや日本軍の進攻目標を解明することが急務となった情報部では、ミッドウェーにまちがいなかろうと判断はしていたが、これを確認するためにニミッツ大将の承認を得て、日本軍にオトリの偽電を送り込む計略を実施した。五月十一日、ミッドウェーの守備隊長は、情報部の計画にしたがって、
「真水蒸留装置が故障、飲料水不足中」
とハワイの司令部宛に平文で発信した。これに対して司令部は、同じく平文電報で、真水をバージ船で送るむねを回答した。
情報部は、この偽電が日本軍にどう伝わるか、固唾を飲んで待ちかまえた。二日後の十三日、
「AFは真水が欠乏している」
と通報する日本軍の暗号電文が解読されたのである。計略はみごとに成功した。これで進攻目標がミッドウェーであると断定できたのであった。
ついで情報部は、日本軍の攻撃開始日を解読することに成功、手の内を見破られた日本機動部隊は、やがて大敗北を味わうことになるのである。

2013年11月1日金曜日

二・二六事件以後、日本が戦争に向って

歩を進めた過程の中で、海が不意に深くなるように、戦争への傾斜が段を成して急に深まった場面が幾つか数えられるが、南部仏印進駐は、その大きなステップの一つであった。
山本は最初に、井上航空本部長に向って、
「井上君、航空軍備はどうなんだ?」
と聞いた。
井上は、
「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」
と答えた。

日本軍隊用語集 ― 武官(共)

武官(ぶかん)

今でこそ公務員は公僕ともいわれ国民にサービスする立場だが、つい半世紀前までの日本は極端な官尊民卑の国であった。官という国家機関に属する役人、天皇の官吏は国民の上に位置し、官と民とは上下関係をもつ階級であった。
大本営の発表にも「官民一体となり敢闘せり」などの文句があり、明治以後も官は武士であり民は農工商人であった。

軍隊は天皇の軍隊であったが、兵隊は武官ではなく、ただの国民であった。下士官の最下級の伍長になって、初めて判任官という武官に任官する。さらに将校になると高等官となる。

将校・下士官はすべて武官であるが、とくに天皇に仕えて宮中で軍部との取り次ぎをする侍従武官、各国の大・公使館に勤務する駐在武官、他国の戦争を視察する観戦武官など、とくに武官の名をつけた役職もあった。

戦訓12 ― 楽観気運と機密の漏洩

開戦以来、とくに空母「赤城」「加賀」の第一航空戦隊、「蒼龍」「飛龍」の第二航空戦隊の強さは抜群であった。
この二つの戦隊の飛行機搭乗員の戦技は、実戦によってさらに磨きがかけられ、これ以上は望めないほどの熟練ぶりで、まさに神技の域に達した名人ぞろいであった。
したがって彼らの戦力は高く評価され、どのような情勢になっても、天下無敵の一航戦と二航戦が出かけてゆけば、どんな敵でも簡単に処理してしまうだろうと、誇大な期待感と安心感がひろまっていた。
楽観気運は将兵の緊張感を欠落させ、機密保持の心構えを弛緩させた。

ミッドウェー作戦計画は秘中の秘であり、激論のすえ、四月五日に作戦案が正式に採択された。
それから極秘のうちに作戦準備にかかったのだが、なんと、一週間もたたないうちにシンガポールで、次の攻略地はミッドウェーだと流布していたのである。
まして内地では、公然の秘密となっていた。海軍部内だけでなく、巷間にも噂はながれていた。とくに横須賀、呉、佐世保などの軍港地では、飲み屋のおかみさんまで知っていたほどである。
ハワイ作戦のときは、海軍部内のトップクラスの指揮官、要職者だけにしか知らされず、軍艦の次席指揮官である副長にさえ出撃後に知らせたほど機密保持は厳重であった。
それにくらべると、今回は雲泥の差である。ゆるみきった楽観気運が、重大な機密をやすやすと流してしまっていたのである。
それがミッドウェー海戦の敗北の一因になっていたことは言うまでもない。

戦訓11 ― 帷幄の指揮官と実戦指揮官

柱島沖の帷幄の中で作戦を構想する者と、実戦者との心構えの相違…

ミッドウェー島の占領と敵機動部隊の両方にあたれという作戦が気に入らなかった。いやしくも作戦の先陣をうけたまわるのは機動部隊であるから、作戦の仕振りについてはこちらの意見を聞いてもよかろうと、幕僚たちはいきり立ったのである。
それに何よりも全搭乗員が疲労している。

南雲の腹の中には、これまでの南方作戦での指揮と戦果が自信となって、うぬぼれと驕慢心がなくもなかった。それにハワイ作戦での一撃離脱について、山本が批判的な言葉を弄したことも、南雲の耳に入っていた。これがカチンときていた。

さて、ミッドウェーにおける南雲は、あまりにも大胆すぎた。というより、状況判断の不徹底が四空母壊滅の原因になった。
敵機動部隊を発見した南雲機動部隊では、攻撃機の兵装を再度とりかえるという、あまりにも有名なロスをくり返した経緯があるが、問題となるのは、それ以後の南雲の戦闘指揮である。
山口司令官が二航戦(蒼龍、飛龍)の艦爆の兵装転換が早く終わったので、南雲長官に二航戦の艦爆隊だけでも攻撃に発進させるべきだと意見具申した。
ところが、南雲は山口の意見を無視、返事もしなかった。

状況判断は、指揮官の最も重要な責務である。そのためには、いかなる情報も無視してはならないし、部下の進言を軽んじてはならない。繊細な観察と、怜悧な分析力と、チャンスには勇断をもって当たる決断が要求されるものである。そこに指揮官の資質が重大な要素として問われるゆえんがある。