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2018年2月22日木曜日

〈水脈(みお)の果て

炎天の墓碑を置きて去る〉(金子兜汰さん)

航跡の向こうに残した仲間への鎮魂。

2018年2月15日木曜日

1997年衆院本会議、沖縄の駐留軍用地特別措置法の

改正時。
(野中広務氏)自身が62年に沖縄を初めて訪問したときのことを引き合いに出した。乗ったタクシーの運転手がサトウキビ畑の前で止まって「妹がそこで殺された」と泣き始めた。しかもやったのは米軍ではなかった、と。自分はこの出来事が忘れられない。国会の審議が大政翼賛会的にならないように――と続く。

「私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです」(当時、社民党の1年生議員だった中川智子氏)
夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。「これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい」。携帯電話の番号があった。

2018年2月1日木曜日

「……古い苦しい時代を生きてきた人間として、

今回の審議(橋本龍太郎政権下の1997年夏の駐留軍用地特別措置法改正の衆院本会議)が、どうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように若いみなさんにお願いをしたい」(衆院本会議での可決に先立つ委員長報告の最後での、野中広務氏の異例の発言)

政界を引退した2003年の、「毒まんじゅう」は流行語大賞に選ばれた。

「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖を感じる」(著書より)

また、戦中の体験などから「憲法9条は変えてはならない」と主張していた。

「野中氏の死去で、政治が弱者のためにあった時代が完全に終わった」(政治家としての姿を描いた「野中広務  差別と権力」の著書があるジャーナリスト、魚住昭氏)