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2018年6月22日金曜日

「俺は知らなかった。あいつ等は

俺を誘わなかった。おそらく俺が新婚の身だったのを、いたわったのだろう。加納も、本間も、山口もだ」
麗子は良人の親友であり、たびたびこの家へも遊びに来た元気な青年将校の顔を思い浮べた。
「おそらく明日にも勅命が下るだろう。奴等は叛乱軍の汚名を着るだろう。俺は部下を指揮して奴らを討たねばならん。……俺にはできん。そんなことはできん」
―― 三島由紀夫『憂国』

軍人の妻たる者は、いつなんどきでも

良人(おつと)の死を覚悟していなければならない。それが明日来るかもしれぬ。あさって来るかもしれぬ。いつ来てもうろたえぬ覚悟があるかと訊いたのである。麗子は立って箪笥の抽斗(ひきだし)をあけ、もっとも大切な嫁入道具として母からいただいた懐剣を、良人と同じように、黙って自分の膝の前に置いた。これでみごとな黙契が成立ち、中尉は二度と妻の覚悟をためしたりすることがなかった。
―― 三島由紀夫『憂国』

2018年6月17日日曜日

赴援隊として入った反乱側の

三連隊の中橋中尉と守備についていた第一連隊の大高少尉が(宮城守備隊)本部でお互いに拳銃を抜いて対峙する緊迫した状況も現出した。ところがついに中橋は一発も撃たなかった、いや撃てなかった。
すでに人を殺してきていますが、さらに殺人を重ねるというのは大変なことだった。結局、青年将校たちがいちばん企図したところの宮城占拠計画が失敗する。
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

「ニ・ニ六事件」が起きた瞬間に、

昭和天皇は背広から軍服に着替えた
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

一九四四年の二月には、

トラック島ではほとんど日本の航空基地が機能しない状況となる。焦る東條はサイパンを守る守備隊のところに絶対国防ラインを敷いた。とくにサイパンは「東條ライン」と称して難攻不落の防御線を敷いていると天皇に報告している。ところが現実には、ただ海辺に穴を掘っただけの代物でした。
『昭和  戦争と天皇と三島由紀夫』

2018年6月10日日曜日

満洲軍総司令官大山巌は、

いよいよ出征にさいして、海軍大臣山本権兵衛に念を押しています。
「戦はなんとか頑張ってみますが、刀を鞘におさめる時機を忘れないでいただきます」
(日露戦争)当時の日本の人たちの冷静な計算、戦略には見るべきものがたくさんあります。
(……)

翻って太平洋戦争の日本人は……残念ながら、戦争の終結の方法なんて一切考えなかった。「ドイツが勝ったらアメリカも戦意を失う、終戦できるだろう」と他人のフンドシをあてにした。ドイツが負けたらどうするんだなんて、誰も考えてないんです。日露戦争前にはあれほどよく考えた日本人が、昭和になって実に安易であった。無責任であった。
(……)

「戦争はやってみなきゃわからないんだ」(開戦時の永野修身軍令部総長の言葉)
『あの戦争と日本人』

2018年6月9日土曜日

軍人にも、わたくしが非常に立派な昭和人だと

思う人はいます。今村均大将、井上成美大将、小沢治三郎中将……彼らの戦後の生き方は、やはり日本人のいいところを示しました。あのようなバカげたことはもうしない、と戦争責任を真っ正面から受け止めてね。わたくしは、昭和の人にも、この断絶としっかりと立ち向かった人たちに限っていえば、自制と謙虚の美しい昭和の精神があったと思いますね。
『あの戦争と日本人』

2018年6月8日金曜日

そのときに学んだのが、歴史の当事者といえども

ウソをつくんだなということ。最初は聞いてきた話を疑いもせず、レポート用紙に書いて伊藤(正徳)さんに出していたんです。
「半藤君、だめだね、こりゃ」
「どうしてですか」
「この男はウソついてる。この事件のこのときには、この立場にいないよ。いたような顔をしてしゃべってる」
『あの戦争と日本人』

2018年6月6日水曜日

司令官逃避

陸軍刑法は冒頭に述べたように、組織上、下部の者ほどいじめられるように出来ている。この副官のように自分にはできもしないことを他人に押しつけることが、上級の者には許されている。「上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」と軍人勅諭にあるから、始末が悪い。
著者は巧妙な表現を用いている。「軍隊では、どんなことでも理由になる。あるいは、理由になることでも理由にならない」
その通りである。
――『軍旗はためく下に  第三話 司令官逃避』への五味川純平氏の解説より

2018年6月3日日曜日

昭和十五年七月二十六日、

零式艦上一号戦闘機一型六機が漢口基地に到着した。

八月十二日には零戦の第二陣七機の空輸が行われ、(……)零戦隊は十三機となった。

最初の重慶侵攻は八月十九日に実施された。
零戦隊の指揮官は横山保(たもつ)大尉。
この日の出撃では敵戦闘機は退避してしまい会敵できず、空中戦闘は発生せず空振りに終ったものの、長距離進攻の体験は貴重なものとなった。

八月二十三日には第三次空輸の零戦四機が漢口に到着し、零戦隊は十七機となった。

九月十三日には進藤大尉以下十三機の出撃となった。
この日、零戦隊は陸攻隊と共に重慶に侵入したが、やはり敵戦闘機は退避して会敵できなかった。
しかし、戦闘機隊は攻撃後重慶上空へ引返す策を採り、中国空軍のI‐15、I‐16合計二七機と遭遇、ただちに空中戦となった。
この戦いで日本側は全機撃墜を報告したが、実際には被弾のみの機や不時着機もあり、全機が撃墜されたわけではなかったが全機を撃破した。

敵二倍という劣勢ながら、敵戦闘機すべてを撃墜破したことは画期的な戦果といえた。

「所見  零戦ノ性能優秀ニシテ急上昇ノ性能敵ニ比シ遥カニ優レタル為、急降下急上昇ヲ以テスル攻撃ノ反復ニ依リ敵ヲ圧倒スルヲ得タリ。尚二十粍弾ノ威力極メテ大ニシテ一撃克ク必墜ヲ期シ得タルハ戦果拡大ノ一大原因ト謂フヲ得ベシ」
『歴史群像  2018 FEB.』

番号を持つ特設航空隊の誕生

番号を冠した特設航空隊の筆頭が「十二」で始まるのは、(支那)事変勃発の前年、昭和十一年(一九三六)九月に南支で北海事件が発生した際に九六式陸上攻撃機(中攻)と九五式陸上攻撃機(大攻)とで第十一航空隊が編成されて、短期間台湾に展開したことによる。

また、この当時の特設航空隊は「第十二航空隊」が正式な名称で、太平洋戦争中期(昭和十七年十月以降)の特設航空隊が「第三〇ニ海軍航空隊」と呼ばれたように隊名の途中に「海軍」を挟まない。

第十二航空隊は佐伯航空隊を基幹として旧式の九〇式艦戦六機と九五式艦戦六機、九四式艦爆十二機、九二式艦攻十二機の小型機部隊として編成され、大村航空隊を基幹として九〇式艦戦六機、九六式艦戦六機、九六式艦爆六機、輸送機一機で編成された第十三航空隊と共に第二連合航空隊(七月十五日編成完了)として運用された。

制空と航空撃滅戦の補助、そして地上部隊への協力を主任務とする小型機部隊が第二連合航空隊だった。
『歴史群像  2018 FEB.』