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2014年12月29日月曜日

ご存知の通り、来年はちょうど終戦70周年に

当たります。私が近所の本屋で「絵とき日本海軍」を買ったのが終戦30周年の時でした。本日改めて読み返してみて、分かりやすく書かれていると感じると共に、この40年を思わずにはいられない気持ちでおります。時代も変わったと感じております。

2014年12月28日日曜日

「憐れなまでに勇敢を強要された」(五味川純平『ノモンハン』)

ノモンハン事件の教訓は生かされず、一個師団壊滅というその内実は国民に知らされることなく、あくまで"事件"として内密に処理された。もはや八九式中戦車、九七式中戦車、九五式軽戦車などでは、ノモンハン事件当時のBT戦車とは戦えても、T-34中戦車には相手にもならない。関東軍総司令部は、居留民を置き去りにして、ソ連参戦の戦闘三日目の八月十一日、いち早く新京を捨てて小型飛行機で南部の通化へと移転した。「各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善をつくすべし」
日本の組織が抱える"無責任"がここにある。



「加賀の最後を見届けてから、

僚艦萩風とともに、舞風は、赤城の護衛についていた嵐と野分に合流しました。嵐には司令・有賀幸作大佐がおられたが、この方は実に豪胆な人でね……後に大和艦長として沖縄特攻で戦死されましたが……アメリカ機動部隊がすぐそこにいるのに、平文で各艦に電報を打ってくるんですな。"今夜半会敵ノ際ハ刺シ違エ戦法ニテ全軍突撃スベシ"——くるならこい、というところでしょうが、噴煙をあげる赤城を眼の前にして、この電報でしょう、本当に泣かされましたよ、感激しました……」(同、中杉少佐)
駆逐艦魂ここにあり、というところなのであろう。
『完本・列伝 太平洋戦争』

「それは舞風ばかりじゃありません。

ほかの七隻の駆逐艦だって同じことです。残骸となった航空母艦を護り、見方には遠くおきすてられ、敵の飛行機や潜水艦の脅威にさらされている。こりゃ、いい気持じゃありませんでした。しかし、それが自分の戦争だと思えば、敗け戦さにへこたれちゃいられません」(中杉清治少佐)
『完本・列伝 太平洋戦争』

2014年12月14日日曜日

真崎(甚三郎)、荒木(貞夫)ならびに

川島(義之)陸相のごときは堂々と「維新部隊」(杉山メモ)と呼んでいたらしい。
『昭和史発掘』

九段坂上から半蔵門にかかると重機や

着剣の歩哨線にひっかかった。

「俺は憲兵司令官岩佐中将だ。お前らの指揮官に会いに行くのだ。ここを通してくれ」
中将と歩哨との対決である。
「駄目だ!かえれ、かえらないと撃つぞ」
司令官は、兵のこの態度に、いかりに全身をふるわせながら、
「お前達はそれでも天皇陛下の軍人か」
両頬には涙が流れていた。
この有様を後方から眺めていた下士官が、
「問答無用だ。早くかえれ!射つぞ!」
と大声でどなった。すでに一人の兵隊は重機の引金に手をかけている。傍の副官はこの緊迫した空気に、
「閣下、間違いのないうちに引返しましょう、大切な仕事が沢山あります」
副官はムリに司令官を車の中に押入れて後退した。(大谷敬二郎著『昭和憲兵史』)

『昭和史発掘』

2014年12月12日金曜日

「あれは他人の報告や意見ではない。

俺が三回、自分で追って追いつけなかったんだ。ワシントンは零戦では落とせないぞ。俺が言わなきゃ、司令部はいつまでもわからんじゃないか」(角田和男)

前線視察中の山本五十六聯合艦隊司令長官の搭乗する一式陸上攻撃機がP-38に撃墜され、長官が戦死したのはそのわずか四日後のことであった。
『特攻の真意』