ページ

2014年10月28日火曜日

「川尻(勉)君、ああ、ご無沙汰をして

おります。出撃のあの時、あんたと握手して別れた。あれはまだ、いまだに、手に残っております。あんたが輸送船やったかな、撃沈したのを艦長は潜望鏡で確認されておりますので、本当によう首尾よく目的を果たされたなあと思って感激しております。日本はあれ以来、何とか栄えております。どうかご安心ください」(人間魚雷回天の元搭乗員、坂本雅俊氏)

「我々の潜水艦が攻撃を受け、あわやというあの時点、朝の四時、まだ薄暮やったと思いますが、荒川(正弘)君は無事発進されて駆逐艦をやっつけていただいた。関(豊興)さんと荒川君のおかげで潜水艦は助かった。私は故障でその時出られなくて本当に申し訳なかった。もう六十何年、悶々としておりました。あんたらのおかげで生き長らえさせていただいておりますが、本当に申し訳ないと思っております」(同、坂本氏)
『日本海軍400時間の証言』

「軍令部の参謀なんか

本当にくそっ食らえと私は言うんですが、ああいう奴らは戦時中ひどいことをやりながら、自分は戦後関係ないけれど、実戦におった隊長とか参謀とかは非常に苦しみながら、戦後も死ぬまで担(かつ)いだと思います」(大津島出身の元海軍兵士で「回天顕彰会」会長を務める、高松工氏)
『日本海軍400時間の証言』

「父はやむを得ず特攻に関わったと思いますが、

本当はもっと早く戦争を止める努力をするべきだったと思います。発言すべき時に沈黙してしまう、当時から現在につながる空気を感じました。」(中澤佑元中将の長男、忠久氏)
『日本海軍400時間の証言』

……しかし、話が桜花にうつると

態度が変わり始め、「技術は人間が使うためのもので、技術に人間が使われる、または支配されるようなことがあってはならない」と熱く語った。(東京帝国大学工学部を卒業後、海軍航空技術廠で人間爆弾「桜花」の製造に携わった元海軍技術少佐 三木忠直氏)
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月19日日曜日

「直掩」 神風特別攻撃隊・角田和男氏

神風特別攻撃隊葉桜隊、梅花隊、金剛隊、さらに第二〇五海軍航空隊第十七大義隊など十数回にわたって、特攻隊員として出撃した経験がある。

自分自身が特攻作戦を命じられた時は二十六歳だった。部下が皆志望するのを見て「熱望」と書いたという。戦闘機乗りのする作戦ではないという本音は、胸のうちにしまった。
仲間の死と戦果を見届け帰還した角田氏に、ただちに次の命令が下った。神風特別攻撃隊梅花隊に配属されたのである。その命名式で出撃する特攻隊員を前に、白いテーブルに海軍の幹部ずらりと並んだ様子を見て、こう思ったという。
「頭でっかちの海軍の末期的症状」
最前線で日々激戦を生き抜いてきた角田氏は、戦況が如何に切迫しているかを実感していた。
特攻作戦を命じる幹部への不信感も増していった。

(ある特攻隊員のお墓への)お参りの後、角田氏が言った言葉が忘れられない。
「いくら墓参りをしても、亡くなった人は生きて帰ってきませんから」
『日本海軍400時間の証言』

特攻 やましき沈黙

「やましき沈黙」
これ以上に、特攻作戦に代表される、海軍の罪の意味を言い当てている言葉はない。そしてそれは、決して他人事ではない。私たちにも思い当たることだ――。
『日本海軍400時間の証言』

神風特別攻撃隊が初めての

組織的な体当たり攻撃を実施したのは、昭和十九年十月二十五日のことであった。先立つ七月に「大海指」が出ており、そこに「特攻作戦をやれ」と明記されているのだという。しかも、その七月の命令のさらに四ヶ月前の三月には、鳥巣(建之助)元中佐自身が「(回天)特攻作戦をやれ」と指示を受けていたというのである。

(鳥巣)元中佐が送り出した回天搭乗員は八十九人に上った。
当時、海軍のすべての作戦を統括していたのは、軍令部一部長の中澤(佑)元中将だった。つまり、鳥巣元中佐は、中澤元中将が部長を務める軍令部第一部の指示で、回天作戦の参謀を務め、兵士たちを死地に送り出していたのである。
『日本海軍400時間の証言』

「誠にけしからん」と

鳥巣(建之助)元中佐が激しく批判しているのは、その中澤(佑)元中将が、旧海軍のOB団体「水交会」で講演を行った際、「特攻については中央から指示したことはない」という趣旨の発言をしたことについてだった。
『日本海軍400時間の証言』

開戦 海軍あって国家なし

国家の存亡、国民の命がかかっていたこの時期に、海軍首脳部は自分たちの組織のことばかり考えていたのである。後の反省会で、豊田元大佐が、軍部は「陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた」と自己批判するが、海軍を守るために一か八かアメリカと戦争するというのは、まさに「海軍あって国家なし」という思考そのものである。
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月13日月曜日

「いや、それがですな、本当の前線に

実際やってる人間と同じようにですね、本当に腹に入っておったらですね、連合艦隊にね、駄目だと言えたはずなんですよ。」(泉雅爾元大佐)

軍令部と連合艦隊で作戦目的すら共有されず、なれ合いで決まったミッドウェー作戦が、失敗に終わるのは必然だった。
『日本海軍400時間の証言』

第一委員会の政治将校

海軍についての著作を多く持つ工藤美知尋氏は、第一委員会の報告書は「石川信吾(元少将)の手によって作成されたもの」だとして、「日本海軍を太平洋戦争開戦へと傾斜させていった中心人物であるとの仮説を持つ」としている(『日本海軍と太平洋戦争』)。
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月4日土曜日

「大体、特攻隊員を送り出すとき、幹部は必ず

こういったんですよ。『必ず自分も後からいくから』。なのに、本当に約束を守って死んだ幹部なんてほとんどいなかった」
『日本海軍400時間の証言』

「海軍は所帯が小さいから、仲間意識が

強くてね。良いところも多いのだけど、困った点は、失敗しても皆で庇い合って責任がウヤムヤになりがちなところなんだよね……」
『日本海軍400時間の証言』