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2015年6月28日日曜日

断っておくが、軍司令官、参謀長には

代理という想定はない。辻(政信)はみずからが課長、参謀長、軍司令官になりすましている。陸軍刑法にいう擅権(せんけん)の罪に当る。辻にあっては統帥権の尊厳など毛頭感じてもいなかった。
『ノモンハンの夏』

満州事変以来、軍は

外には独断専恣、内には「国家革新」という名に軍紀はみだれ、その統帥はゆるんでいた。
『統帥権とは何か』

しかもその幕僚は

幕僚道として「諫言」を第一とする。だが、その諫言には謹慎が伴わねばならないのに、その謹慎と謙虚は下克上と驕慢によって失われていた。
『統帥権とは何か』

2015年6月21日日曜日

山県支隊派遣の報告を受けた関東軍司令部も、

大内大佐(参謀長会議で新京へ出張中)の考えを是として、磯谷参謀長名で、「派兵の再考をすすめる」電報を打ち、同時に大内大佐からも、同じ趣旨の意見具申電報を発信させた。
……

辻に「(小松原)師団長の善良な人柄は、軍のこのような電報(磯谷名の電報)に対しても、なんら悪感情を抱かれなかったのである」と"べたほめ"されているから、相当のものだ。辻に褒められるような師団長では、部下は大抵たまったものではない。
『ノモンハン事件』

辻参謀はドスの利く低い声で山県支隊長に向かい

「あなたは、この後始末をどうするつもりですか」と問いかけたが、支隊長は沈黙したまま。……「あなたの用兵のまずさによって、東中佐を見殺しにした。あなたにとっては、東中佐は同期でもあるでしょう。まずい結果になったものだ」と、作戦の失敗を転嫁、糊塗するかの如く、恫喝にも似た強圧と懐柔をもって支隊長に迫った。
『ノモンハン事件』

当時、極東ソ連軍と日本軍の兵力比は三対一と

推定されていた。しかもソ軍は重装備近代式の軍隊だったが、日本軍といえば、ほとんど日露戦争当時のままの装備・戦法でしかなかった。陸軍内のソ連通といわれた人々は、こうした実情を憂えて、機会あるごとに警告していたが、軍部内には不可解な"対ソ軽視"の気風がみなぎっており、ソ連通の人々は"先覚者"ではなく"恐ソ病"というレッテルを貼られて、とかく軍の主流からは、はずされてしまう実情だったのである。
『ノモンハン事件』

2015年6月20日土曜日

豊田(聨合艦隊司令長官)は

午後六時十三分、全作戦部隊に宛てて、
<天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ>
との激励文を打電した。
掛け声は勇ましいが、「天佑を確信し」という言葉に、日本海軍の末期的状態がよく表れている。もはや、作戦の成否は「天佑」すなわち神頼みだと言っているにひとしい。「武蔵」の生存者救助に当たった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄大尉は、その電令に接したとき、
「なんだこの命令は」
とがっかりしたと述懐している。武田は開戦以来、いくつもの海戦に参加してきたが、これほど場当たり的で具体性のない命令を受けたのは初めてだった。
『特攻の真意』

「一番機は飛行帽をつけていましたが、

二番機、三番機の搭乗員が飛行機に乗るとき飛行帽と飛行眼鏡をはずし、整備員に手渡していた。飛行帽の代わりに日の丸の鉢巻を締めていて、これはどうしたことだろうと不思議に思いました。被弾して油が洩れたり、火災を起こしたりしたら助かる見込みはないからです」(角田和男少尉)
『特攻の真意』

2015年6月16日火曜日

「報道班員、日本もおしまいだよ。

ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番(五百キロ爆弾)を命中させる自信がある」
『特攻の真意』

この場にいた猪口参謀、玉井副長、指宿大尉の三人

とも、自分が第一陣の陣頭指揮にあたる気概があったとは認められない。
「指揮官先頭」をモットーとしてきたはずの海軍で、決死隊ならぬ「必死隊」を選ぶのにまず列機から決め、あとから指揮官を決めるというのは話があべこべである。
『特攻の真意』

2015年6月14日日曜日

(昭和十九年)十月十二日から十六日まで

五日間にわたって続いた「台湾沖航空戦」と呼ばれる一連の戦闘で、日本側が四百機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は一隻もなく、八隻に損傷を与えただけだった。
『特攻の真意』

「あ」号作戦では、日本機の長い航続力を生かして

敵艦上機の攻撃圏外から攻撃隊を発進させる「アウトレンジ戦法」をとることになっていたが、肝心の搭乗員の練度がこれでは、そう都合よく戦いが運べるはずがない。
『特攻の真意』

2015年6月13日土曜日

大西(瀧治郎)は、

「お前たちだけを死なせはしない」とか、「俺もあとから行くぞ」などといった、偽善的で安っぽいことはけっして口にしなかった。
『特攻の真意』


2015年6月7日日曜日

将というのは、

自分の好みや趣味で、茶坊主のようなトリマキをつくってはならないのである。
『勝つ司令部  負ける司令部』

ほとんどの参謀が、「ガダルカナルってどこだ」

とさわいだ。まえに第四艦隊の航海参謀をしていた土肥一夫参謀は、ソロモン群島方面にくわしいので、ひろげた海図を前にして、
「ここですよ」
といった。しかし土肥はおどろいた。連合艦隊参謀といえば、だれもよく勉強していて、たいていのことは知っているだろうと思っていた。ところが、米濠遮断作戦の要地で、海軍航空基地もまさに完成しようとしているガ島も知らないとは、これはなにも勉強していないのだとわかり、「連合艦隊参謀とはこんなていどだったのか」と思ったからである。
参謀たちは、ミッドウェーの大敗についても、とくに反省している様子はなかった。どの参謀に聞いても、
「あー、あれは運がわるかったんだ」
と、たいしたことではないようにいうだけであった。
『勝つ司令部  負ける司令部』

犬養(毅総理大臣)の軍部への

対抗姿勢や満州国承認への消極的態度は、少壮軍人や極右勢力に強い反感を抱かせることとなり、五・一五事件が起こる。
『昭和陸軍全史1』

2015年6月6日土曜日

しかも、「体面」や「保身」、組織内融和の重視や政治的考慮は、

必要以上に作戦中止の決断を遅延させ、雨季の到来や補給の不備とあいまって、現地部隊に過酷な戦闘を強いたのであった。
『失敗の本質』

「部隊の士気(モラル)が、負傷した場合に

どれだけ早く病院に担ぎ込まれるか、その早さによって高くもなり低くもなるということは、事実でしょう。なぜ、日本軍が敗れたのかということを考えてみると、これが答えの一つになると思うのです」(ジョージ・ドナルドソン氏)
『責任なき戦場』

要するに、作戦失敗の責任は

一線の将兵の戦い方に押しつけられ、三個師団の師団長がいずれも途中で解任されるという、陸軍史上かつてない異常事態が生まれた。
『責任なき戦場』

日露戦争のために東郷(平八郎)がえらんだ

常備艦隊のおもな参謀は……

参謀長 島村速雄大佐

まれにみる秀才であるばかりでなく、私心がなく、体が大きかったように心も大きい。功はすべて他人にゆずり、けっして自分をまえに出さない。
『勝つ司令部 負ける司令部』

「いいでしょう。ただ、参謀だけは

わたしにえらばせてもらいたい。それから、戦場では、大方針は別として、かけひきはいっさいまかせてもらいたい」(東郷平八郎)
『勝つ司令部 負ける司令部』