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2018年5月26日土曜日

第三一師団の佐藤(幸徳)師団長は、

五月二五日、第十五軍司令部に次のような電報を打った。
「師団ハ今ヤ糧絶エ山砲及ビ歩兵重火器弾薬モ悉ク消耗スル二至レルヲ以テ、遅クモ六月一日迄ニハ『コヒマ』ヲ撤退シ補給ヲ受ケ得ル地点迄移動セントス」
『責任なき戦場  ビルマ・インパール』

敵前逃亡・奔敵

―― 小松伍長に会ったのは、そのときが最後ですか。
―― ええ。軍法会議へ送られて、死刑を言渡された。
―― 自首したのに死刑ですか。
―― 罪名が敵前逃亡と奔敵ですからね。敵前逃亡だけでも死刑になる者が多かった。
―― しかし奔敵というのは。
―― これはあとで知ったことですが、投降した者はみんな奔敵になる。敵側に奔(はし)ったという意味です。負傷して巳むを得ず捕虜になった者でも、そいつは必ず味方の情報を敵に喋ったとみなされ、やはり奔敵罪で処罰される。全く無茶な話だが、負傷して動けなくなったら自爆する以外になかった。
(中略)

―― しかし、そうやって戻ってきた者を死刑にするとはひどいですね。敗戦になって、アメリカ軍に降伏した将官や佐官連中が、その後は自衛隊の幹部になったり政治家になったりししている。
(中略)

―― 小松さんは死刑の判決をうけて、すぐ銃殺されたんですか。
―― いや、これもあとで聞いたことですが、処刑される前の晩に、首を吊って死んだそうです。わたしはそのときの小松さんの気持が、よく分る気がします。口惜しくてたまらなかったに違いない。
『軍旗はためく下に』

2018年5月20日日曜日

何としても中将にして師団長(佐藤幸徳中将)という

高位の軍人を抗命罪に処するために、軍法会議開廷を求める第15軍司令官に対し、同軍法務部長や上級のビルマ方面軍法務部長は、当時の手続法に照らし、15軍や方面軍は将官を裁くための裁判管轄をもたず、それがために軍法会議開廷は原則的に不可能であると応えたにもかかわらず、なおかつ執拗に抗命罪適用による処断を目論む牟田口司令官を納得させるため、方面軍法務部長が自らの責任で、ほとんど成り立ち得ない拡大解釈により捜査権を行使し、佐藤中将は作戦時心神に故障をきたしていたとの理由をこじつけ「不起訴」、すなわち軍法会議を開廷しないとの結論を導き出し事態の収拾が図られた、としています。(高木俊朗『抗命』(1976年))
『軍法会議のない「軍隊」』

2018年5月19日土曜日

特攻中止命令 終戦の2日前

15歳で予科練(海軍飛行予科練習生)となり、航空機操縦の猛訓練を経て1945(昭和20)年8月、鹿児島県の串良海軍航空基地に移った。
13日。いよいよ出撃、別れの日。私と運命を共にする通称「赤とんぼ」に乗り込んだ。本来は練習機だが私に与えられた特攻機で、250キロ爆弾が装着されていた。「落ち着け」と震えの止まらない自分に言い聞かせ、「さようなら」と誰に言うでもなく心で言った。
この期に及んで敵艦に突っ込む心配より、重い爆弾を抱いて飛び上がれるかが心配だった。
指揮する1番機の合図で計4機が滑走路の出発点に並び、エンジンは最大回転に入った。その時、飛行長が前に立ちはだかりバッテンの合図をした。作戦中止だ。何が何だか分からない。
「みんなは若い。しっかり生きていけ」と威厳に満ちた飛行長の言葉。「生きたのだ」と「情けない」の気持ちが交錯し涙が出て仕方がなかった。終戦の2日前のことだった。(大谷光弘さん  89歳)
――『声  語りつぐ戦争』より

2018年5月13日日曜日

百人近くの人たちを取材して、

瀬島龍三の全貌をかなりつかむことができた。そこでわかった大本営参謀時代の実相をあえて語っておくと、要はその人格は四点に絞ることができた。
(一)自らの成した業務は話さない(末端参謀ゆえに些末な仕事が多かった)
(二)自らが仕えた上司や指導者に随行したことを自らの体験のように話す(開戦前、杉山元参謀総長に同行して宮中に赴いたケースなど)
(三)自らがモミ消した疑いのある史実は関係者には洩らしているが、一般には決して話さない
(四)自らの体験を誇大に話す
取材を通じてこの四点にすぐに気づいたのだが、瀬島はさらにいえば「歴史的な自らの証言」と「公と私の区別を曖昧にして必要以上に私の役割を公に置きかえる」といった二つの特徴を色濃くもっている。私は直接、瀬島に二日間にわたって八時間の長いインタビューを試みたが、この特徴を実感した。『幾山河』にもその特徴がよくあらわれていることがわかった。
『帝国軍人の弁明』

話さないことと誇大に語ること

この『幾山河』が昭和史の真実を求める者に評判が悪いのは、そうした事実(大本営参謀としての本音やそれに影響された事実など)がいささかも書かれていないためだ。すでに知られている史実のみがまるで歴史書のように書かれている。
『帝国軍人の弁明』

「長年の伝統からくる「陸は陸」「海は海」

という考え方にとらわれ、「陸海軍統合の全戦力を集中・発揮する」という思想に欠けていたのである」
この結論はとくに目新しいものではない。瀬島が対米戦争計画の策定にかかわっているだけに(たとえ末端幕僚として細部に関してであったにせよ)、その総括がこのようなものであるならば、より具体的に作戦計画のどこにどのような問題があったのかを明らかにすべきであるのにそれが欠如していることは、帝国軍人の回想録としてはいささか不謹慎の謗(そし)りは免れないようにも思えるのだ。
『帝国軍人の弁明』

南部仏印進駐と対日資産凍結

(昭和十六年七月の日本軍による南部仏印進駐は、つまりは「戦争の決意なき準備陣」だったが、陸軍中央部は「北進か、好機南進か」の二者選一に傾いていて、「南北同時二正面作戦は絶対に回避すべき」だったという。しかし米国の石油の禁輸措置により、国力のジリ貧状態を脱すべく「対米戦は避けられないのではなかろうか」と変わっていく。瀬島もそのような方向に変わっていったと記述している)
『帝国軍人の弁明』

昭和十四年十二月に、瀬島(龍三)が

配属されたときの参謀本部は四つの重大問題を抱えていたというのである。
「①ノモンハン事件の後始末
②支那事変の長期化
③修正軍備充実計画(昭和十四年度からスタートした陸軍軍備充実計画の見直し)
④昭和十四年九月から始まった欧州戦争(第二次世界大戦)への対応」
『帝国軍人の弁明』

2018年5月6日日曜日

真崎に無罪の判決がだされたのは

昭和十二年九月十五日である。この判決文を陸軍大臣の杉山元は天皇に届けている。
(中略)
このへんに東京軍法会議の限界と、破滅戦争に向かう足音が聞える。だが、「真崎無罪」判決文に対し一言の不満も洩らせずに謄写を手もとに保存する天皇の姿に、天皇の権限をも無力化している天皇制の本質がある。
ともあれ、「二・二六事件」はこうして終った。そしてこの頃、二・二六の初年兵たちは、歩一歩三の二年兵として応急派兵され、北支の戦線でたたかっていた。もと安藤(輝三)隊だった歩三第六中隊など、この戦闘でほとんど全滅したという。
『松本清張と昭和史』

「真崎無罪」の意味するもの

そして(『昭和史発掘』の)終章では、皇道派の重鎮とされていた真崎甚三郎にふれる。その判決文を紹介しながら無罪になる意味を具体的に解きほぐしている。この判決文のおかしさは、真崎の被告としての犯罪行為を次々に指摘していき、さらに他の証拠もあってこれを認めるのに困難ではないとしながら、結論として次のようになるというのだ。そのことを松本(清張)は鋭く突いている。

《……然ルニコレガ叛乱者ヲ利セムトスルノ意思ヨリ出デタル行為ナリト認定スベキ証憑(しょうひょう)十分ナラズ。結局本件ハ犯罪ノ証明ナキニ帰スルヲ以テ、陸軍軍法会議法第四百三条ニヨリ、無罪ノ言渡ヲナスベキモノトス》
主文は「被告人真崎甚三郎ハ無罪」である。
『松本清張と昭和史』

2018年5月5日土曜日

昭和陸軍の軍事指導者たちの手記の類は、

戦後七十二年の今、三百冊ほどになるのではないか。むろんここには私家版も含めてということなのだが、こうした類の書にふれてきた者として言えることは、次のような特徴に注目して分類が可能だということである。あえて箇条書きにしておきたい。
(一)昭和陸軍の軌跡と自らの軌跡を同一化した書(自省なき書)
(二)昭和陸軍の中枢にいたが、自らはその政策に疑問を持っていたとの書(二元化した書)
(三)昭和陸軍の軌跡に関わりなく自らの歩んだ道を説く書(史観なき自分史)
(四)昭和陸軍を擁護し自己正当化するだけの書(自己賛美の書)
(五)徹底した昭和陸軍の実態批判の書(自己弁護の書)
(六)客観的に昭和陸軍と自己の歩みを綴った書(史料になりうる書)
(七)次世代に語り継ぐために書かれた書(継承の書)

本書を通じて、軍事上の責任が問われるべき軍人の回想録や手記と必ずしもそうではない軍人との回想録の類を見分ける目を持ってほしいと思う。
『帝国軍人の弁明』

軍人たちの書き残した個々の戦場体験や

戦争体験を見ていくとわかるのだが、近代日本は日本独自の軍事論をもたないままだったといってもよかった。その結果、昭和十年代の軍事指導者たち、あるいは高級軍人は、陸軍大学校でドイツから招いたメッケルというお雇い軍人教官の戦略、戦術を軸にした軍事論を丸暗記した者が成績優秀者とされて、軍令を担うことになる。そういう人物が日中戦争や太平洋戦争の指導にあたった。前述のド・ゴールのように、幅広い知識を身につけているわけではなく、戦略、戦術のみを学び、まるで戦う「機械」のような存在としてふるまったのだ。
『帝国軍人の弁明』