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2017年8月31日木曜日

ひととせをかへりみすれば

亡き友の数へかたくもなりにけるかな      山本五十六
『検証 戦争責任』

2017年8月19日土曜日

東條(英機)は昭和十九(一九四四)年七月に重臣や天皇の側近、

そして昭和天皇その人の信頼を失って辞職するのだが、その契機となったのは、三万を超える日本兵と一万人以上の民間人が玉砕したサイパン陥落であった。このときも東條は「サイパンを失うことは喩えて言えば蚊にさされたようなものだ」と豪語して、かかる事態に困惑する国民が悪い、精神がしっかりしていないからだと、うそぶいていたのである。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

東條英機の官僚体質

昭和二十年八月十日の御前会議によって、日本はポツダム宣言の受諾を決定した。東條はこの会議の三日後、八月十三日に自らの心境を日記風にまとめている。
「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」
この手記に目を通したとき、私はすぐに二つ感想を抱いた。ひとつは、軍官僚としての東條には、敗戦という未曾有の事態に際しても、指導者としての自らの責任に対する反省がまったくないということ。もうひとつは、戦争指導にあたって三百万人余の国民を犠牲にしながら、その痛みに対して何の思いも馳せていないことである。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

東條英機

2017年8月12日土曜日

「機動部隊指揮官に報告。われレイテ湾に向け突撃、玉砕す」

西村(祥治)中将は平常とまったく変らない落ち着いた声でいった。これが司令官の声を聞いた最後のものであった。おそらくこの報告はブルネイ湾を出撃するときから、司令官が考えておられた文句であろう。いや、私はそう確信するのである。司令官はレイテ湾を死に処ときめていたにちがいない。
(……)
山城の乗員約千四百名、生き残ったものわずかに十名。また山城と行をともにし、ともにスリガオ海峡で沈んだ扶桑(乗員約千三百五十)の生存者も十名を数えるだけである。(戦艦山城主計長(大尉)江崎寿人氏)
『完本・太平洋戦争』

スリガオ海峡夜戦


レイテでの出陣前での寄り合いで、

部下達に隔たり無く付き合い、明るく振る舞う姿に、小柳富次は「西村(祥治)は死ぬ気だ」と感じている。
『指揮官と参謀』

西村(祥治)艦隊の潰滅的な最後は、太平洋戦争における

最も無残な殲滅戦であったとされている。海峡の闇の中で、日本側は戦艦二隻、駆逐艦三隻を失い、戦死者約四〇〇〇名に及んだのに対して、米側の被害は魚雷艇一隻を失っただけで、戦死者は約四〇名にすぎなかった。この「スリガオ海峡夜戦」("The Battle of Surigao Strait")は、航空機を伴わない史上最後の艦隊決戦となった。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

西村祥治中将

2017年8月11日金曜日

(昭和十九年十月二十三日)〇六三〇前、一斉回頭で取舵をとって

左に変針していたその瞬間、(羽黒の)左舷側約四キロを進んでいた艦隊の中心、第四戦隊の方角に突然、黒煙が上がった。「空襲!」の声が響くが、機影は見えない。怖れていた敵潜水艦の襲撃に違いない。「配置ニ就ケ」(〇六二七)のブザーが唸る。分隊員と一緒に海軍体操をやっていた後甲板から、艦橋に駆け上がって見ると、左方先頭の旗艦「愛宕」は黒煙に包まれ、続く「高雄」は艦尾から煙を吹いて旋回しながら「舵故障」の信号を掲げている。
(……)
〇六四四、「羽黒」の左後方(一四〇度)に魚雷二本が走ってくるのを認めて「面舵一杯」で危うく回避したが、しばらくして後方に閃光が稲妻のようにきらめいた。約一キロ後を続航していた「麻耶」だ。火柱が消えた前部砲塔の上に這い上がった二、三人の姿が見えたが、瞬時に艦首と艦尾を突き立て合わせるようにして轟音とともに海中に没した(〇六四四・三〇秒)。
(……)
〇七〇二、旗艦「愛宕」は檣頭高く掲げた長官旗と共にその姿を没した。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

パラワン水道での「愛宕」被雷時の隊形

2017年8月9日水曜日

スルアンからの電報は、フィリピンの現地部隊、

特にレイテ等中南部フィリピンの地上防衛を担当している第三十五軍(司令官、鈴木宗作中将、在セブ)にとっては寝耳に水で、この情報を直ちに信ずることができなかったのは、台湾沖航空戦の大戦果が伝えられた直後であって、大損害をうけたはずの米軍の、こんな早い上陸は考え及ばなかったからである。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月8日火曜日

その日(昭和十九年十月十七日)、レイテ湾入口にあるスルアン島の

海軍見張所は〇六五〇に戦艦一、駆逐艦六を、次いで〇七二〇に特設空母一、〇七二五に戦艦一、空母一の近接を認め、直ちに平文でその旨を速報した。そして、〇七四〇「敵ハ上陸準備中」と報じ、〇八〇〇には「敵ハ上陸ヲ開始セリ  天皇陛下萬歳」との電報を最後に連絡を絶った。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月3日木曜日

マッカーサーは、開戦劈頭、誇り高い彼を

コレヒドールから追い落とした、当時の第十四軍司令官本間雅晴中将を、バタアンでの「破廉恥な死の行進」("infamous death march")を口実に刑死させずにはおかないという憤怒にかられ続けてきた。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月2日水曜日

「『油はこんなにございます』が嶋田(前)海相、

『油はこれだけしかございません』(と陛下に言上するの)が米内海相」(井上成美『思い出の記』)
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

小沢治三郎中将は、「戦(いくさ)は人格なり」

「部下統率の極意は無欲」を信条とし、「独創性」「合理性」「現実性」「適応性」を尊重した。「水雷屋」出身でありながら、いち早く飛行機の将来を認め、来たるべき海上決戦の主力は空母航空戦であることを予知し、機動艦隊の編成を早くから具申している。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

(井上成美大将と)同じく戦後、清貧のうちに八十歳で死んだ小沢治三郎提督の葬 儀

(昭和四十一年十一月十三日、死去は九日)には米国大使館駐在武官も参列し、モリソン博士も「偉大な戦略家であり船乗りであった小沢提督の死を悼む」という弔辞を寄せている。ニミッツ元帥は、「敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。小沢提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」と語っている。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

米海軍が日本の提督のうち、

戦略家として最も高い評価を与えたのは山本五十六元帥よりは小沢治三郎中将ではなかったかと思われる。

『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月1日火曜日

初陣の旗艦「大鳳」轟沈

「翔鶴」が(敵潜カバラの三本の命中魚雷により)沈没して間もない(昭和十九年六月十九日)一四三二、目前の「大鳳」が突如、目のくらむような大爆発を起こした。再び潜水艦の攻撃かと思われたが、その原因は、(敵潜アルバコアからのガソリン・タンク付近への一本の命中魚雷を受けていた為)ガソリンの臭気を抜くため、すべてのベンチレーター(換気栓)を開放したことが、ガソリンと重油の揮発性ガスを艦内に充満させ、艦全体を爆発寸前の巨大なシリンダーと化してしまい、それに排気のための電動送風機の火花が引火したのである。爆撃に耐えうるための厚い飛行甲板が、下からの爆発を押えたため、爆発圧力をさらに強める結果となり、甲板を小山のように盛り上げながら二つに割れ、内部の人員を圧殺して、艦内を阿鼻叫喚の灼熱地獄と化し、隔壁を横に打ち破った火柱が艦側から轟然と沖天に噴き上がった。昼食を終えて艦橋に上がった筆者(羽黒乗艦)の目前に、目のくらむような閃光が走り、大音響が伝わり、艦載機の破片に混って四肢を虚空に大の字に突っ張って吹き上げる乗員のいくつもの姿が、艦橋からまざまざと双眼鏡に映る。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

空母大鳳