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2017年9月11日月曜日

隊長からの一通の手紙

「私(須見新一郎、元歩兵26連隊長)は司馬さんという人を信じて何でもお話したが、あなた(司馬遼太郎氏本人)は私を大いに失望させる人であった。したがって、今までお話したことは全部なかったことにしてくれ。私の話は全部聞かなかったことにしてくれ」という趣旨でした。
その理由は、「あなたは『文藝春秋』誌上で、瀬島龍三大本営元参謀と実に仲良く話している。瀬島さんのような、国を誤った最大の責任者の一人とそんなに仲良く話しておられるあなたには、もう信用はおけない。昭和史のさまざまなことをきちんと読めば、瀬島さんに代表されるような参謀本部の人が何をしたかは明瞭である。そういう人たちと、まるで親友のごとく話しているのは許せない」といったことでした。この手紙を読んで、あ、これでは司馬さんはノモンハンを書けないなと思いました。(半藤一利氏)
『昭和史 1926▶︎▶︎1945』

幻想・独善・泥縄的

「敵は、日本軍が出動すれば退却する」という、自軍にとってはまことに都合のいい、固定した先入観が日本軍の参謀にはあった。<それにのっとるかぎりはまことに間然するところのない作戦計画である。ただし敵情はまったく無視されている>。
だから主観的には勝つはずなのに、徹底的に痛めつけられることになった。司馬遼太郎さんも指摘したことだが、戦車一つとっても差がありすぎた。こちらの戦車は装甲が薄く、機関銃にも耐えられない。しかし名前が「戦車」である以上、それはりっぱな戦車なのだった。
『昭和史 1926▶︎▶︎1945』

2017年9月9日土曜日

昭和十二年、私が入隊する前年のことですが、

青年学校で、私は、関東軍の一大佐の講演をきいたことがありました。対ソ戦についての講演で、こまかなことは忘れてしまいましたが「たとえソ連に戦車が何百台あろうと何ら恐れることはない。向こうの戦車をこちらで鹵獲(ろかく)し、それを使って、逆に相手に向けて進めばよいのだ」といわれたことは、なぜかしっかりと頭の芯に刻まれていたのです。
(……)
戦車を分捕るどころではない、戦いがはじまって、まだ間もないというのに、中隊長も、第一第二小隊長も戦死してしまい、仲間がどれほど死傷しているか、見当もつかないのです。
『静かなノモンハン』

2017年9月7日木曜日

「あの馬は、もう死ぬな。この見通しのいい砂地に、

砲を曳いてくれば、標的になるだけじゃないか。日露戦争と同じだ。アンパン抱いて戦車退治するより手のない戦争ってあるのか?そう思わないか。――どうせ死ぬにしても、だれかと話したくなった」
『静かなノモンハン』

2017年9月6日水曜日

一九八九年、モスクワの戦史研究所を訪れたとき、

資料保管室の中に金網で囲まれた一角があり、外見からすると、どうやら日本兵から捕獲したと思われる手帳や日記帳が保存されているようであった。当時の状況から、私は、それらの捕獲物についてあえて尋ねることをしなかった。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

サイダー瓶による火炎瓶

(第七師団第二十八聯隊はハイラルから二百十六キロを行軍し、八月)二十一日に将軍廟へ着きました。
(……)
サイダー瓶にガソリンを詰め、点火芯には乾パンの袋や、兵器手入用の晒木綿や手拭を裂いて使い、これに点火して戦車に投げつけます。すると、エンジンの熱と暑熱とで灼け切っている戦車の鉄甲は、ガソリンを浴びてたちまち燃え出し、焔は天蓋の隙間から内部に吸い込まれて、内部をも焼きつくします。
(……)
明日はまちがいなく戦車と対決する運命にさらされます。
『静かなノモンハン』

2017年9月3日日曜日

「フイ」高地の悲劇

戦闘後、塹壕と掩蔽部から、六〇〇以上の日本軍将兵の屍体が引きずり出された(シーシキン他(田中克彦編訳『ノモンハンの戦い』)

ソ連側は、これでフイ高地は一人残さずかたづけたと信じていて、陣地に占領を示す赤旗を立てたし、日本側も全滅したものと考えた。
ところが壕の中には、まだ一二九人の兵が、水も糧食もないまま生きていた。井置支隊長は通信機も破壊され、連絡もとれず、(八月)二五日未明、ソ連軍が立ち去った後、自らの判断で、高地を脱出して本隊に到着した。その脱出がいかに成功裡に行われたかは、「一人のぎせい者も出さなかった」という事実に現れている。しかしこれは命令によらない無断撤退であると罪を問われ、停戦協定後の九月一六日、ピストルを渡されて自決を強要された。命令に反して撤退したという理由で、靖国神社にまつられることも許されなかった。それが許されたのは戦後になってからであると伝えられる。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

(昭和十四(一九三九)年六月二十七日のタムスク)越境空爆は、

この段階で国境衝突がすでに「事件」とは呼び得ない様相を帯びたことを明らかにしている。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

天皇はかつてない怒りを顔に表して言った。

「自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごときものに勅使などもってのほかのことである。また、師団長が積極的に出られないと言っているのは、自分の責任が何であるか解せざるものだ。直ちに鎮定するよう厳達せよ」
『昭和天皇ご自身による「天皇論」』

2017年9月2日土曜日

瀬島(龍三)は歴史的証言をするにあたって、

関係者が存命中は表立った反論こそしないものの、その人物の死後になると前言を翻すような証言をする。その手法を知っているのであろう、旧軍人やかつての大本営参謀たちの中には、「自分の死後に、瀬島の発言によって、私の名誉が汚されることがあったら、保阪さん(著者)、徹底的に反論して欲しい。そのために史料を託したい(あるいは、証言を記録して欲しい)」と申し出る者さえあった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

戦争終結後、たとえば東條英機や杉山元など、

阿南(惟幾)よりもはるかに「責任観念」を明確にしなければならない指導者がいたが、杉山は敗戦からほぼ一ヵ月もたった九月十二日に拳銃で自殺。東條はその前日(十一日)、逮捕にやってきた米軍MPの前で拳銃自殺に失敗している。彼らの自決は戦犯として逮捕されることへの恐れからであり、何かに殉じたわけではない。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

(集めた中堅幕僚に対し)「陛下はこの阿南(惟幾)に対し、

お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上、反対を申し上げることはできなかった」
と伝えた。そして、
「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」
と、付け加えた。この言によって、ポツダム宣言受諾、すなわち敗戦を受け入れることが陸軍内部の大勢となった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

(昭和二十(一九四五)年)八月十四日午後、

鈴木貫太郎首相の下で最終的に終戦の決定が閣議決定された。阿南(惟幾)は静かに署名し、花押を認(したた)めた。しかし詔書案の文案にある「戦勢日に非なり」という字句を「戦局必ずしも好転せず」と訂正するよう主張している。これに対して海軍大臣の米内光政が強硬に反対して論争が起こったが、鈴木首相の判断で阿南の案が通った。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

陸軍大臣 阿南惟幾大将

こうした一家的な結びつきにもとづく同質な人間が集まった組織は

きわめて危険だ。太平洋戦争が始まる頃、陸軍省軍務課長の地位にあった佐藤賢了は東條(英機)のマグの一人だった。
「兵隊がガムをかんでいたり、上官に口答えしたりしているアメリカ陸軍は軍隊の体をなしていない。皇国精神にあふれているわが皇軍とは、その精神力で比較にならない」
こんな雑駁(ざつぱく)な佐藤のアメリカ観を鵜呑みにして、東條は戦争に踏み切ったのである。もう一人のマグで、東條の下で陸軍次官を務め、「東條の腰巾着」と言われた富永恭次は、部下に特攻を命じておきながら、自分はフィリピンから敵前逃亡している。
軍官僚は権力を私物化して、気に入らない人物は懲罰的に前線へ送りこみ、自分たちに連なる人脈は決して激戦地には送らなかった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

陸軍大学校の定員は約五十名である。

教官は佐官クラスの将校で、学生は二十代後半から三十代初めの尉官だ。密度の濃い人間関係だけに、自分の教官がその後昇進していけば、自分もそれに連なっていける。そのために教官へ接近していった学生もいた。一方で教官の方でも、自分の娘を将来性のある青年軍人に勧めるというケースが少なくなかった。
このように互いに計算ずくで接近する関係を、旧軍では「納豆」(ねばねばしているの意)とか「マグ」(マグネット=磁石の意)と称したが、こうした関係を露骨に重視したのが東條(英機)であった。陸大受験を狙う部下にきめ細かな配慮をする一方で、陸軍大臣に就任すると人事権を恣意的に行使して、自分の息のかかった人間だけしか要職に就けなかった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

2017年9月1日金曜日

(昭和)天皇自身は、終戦直後の四五年(昭和二十年)九月二十七日、

マッカーサーとの会見で「私は全責任をとる」と発言した。その一方で、当時の状況として開戦を拒否することは困難であったとの認識も示した。
「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」(『昭和天皇独白録』)
『検証 戦争責任』

昭和天皇は過去二回、

歴史の重大局面において政治的決断を下している。二・二六事件を起こした反乱軍への討伐命令、そして終戦の「聖断」である。
『検証 戦争責任』