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2016年11月27日日曜日

(反日ゲリラの)シエナ(軍曹)の腕時計で(昭和十九年十月二十四日)十時半頃、

東側の大艦二隻が相ついで艦側に水柱をまき上げた。大きい方の一隻(武蔵)は水柱が収まると、そのまま航行を続けたが、前方をゆく少し小さい艦(注、妙高)は速力が遅くなった。
『戦艦「武蔵」レイテに死す』

シブヤン海海戦時の戦艦武藏(手前)と重巡洋艦利根(奥)(10月24日15時過ぎ)

2016年11月26日土曜日

それよりも指揮官中島(正)少佐より、

「直掩隊は帰らなくて宜しい、攻撃隊と一緒に突っ込め」
と、命ぜられたことに搭乗員たちは納得し難い感じを持っているようだったが、詳しいことは他隊のことで分からなかった。
『修羅の翼』

2016年11月24日木曜日

杉田(庄一上飛曹)の操縦は無謀のようにみえてその実、

決して部下を殺さないやり方であった。最初の編隊訓練のさい、杉田は列機の若い搭乗員に向かって、「お前たちはまだ一人前じゃないから、編隊についてくるだけでいい」といった。そして、この火傷だらけの古参搭乗員はいう。——決して、一人で戦争をやろうと思うな。編隊を崩さず、たとえ相手の姿が見えなくてもオレが機銃を射ったら、お前たちも射て。当てようと思うな。お前たちの腕では当たるほうが不思議なのだ。
『敷島隊の五人』

そして突然の「総員集合!」。

夜間飛行訓練用のサーチライトを煌々と点け、ケプガン(注、Captain of Gun-room の意)永田中尉が壇上に立って「お達示」をはじめる。貴様たちの入隊以来の態度を見るに、飛行学生として一人前に育てるためには、まずその根性から鍛え直して行かねばならん。多くはいうまい。いまから貴様たちに修正を加える。足を開け……。
『敷島隊の五人』

しかし、銃撃特攻とは、どんな命令なのか。

「はい、セブで零戦が銃撃に成功しているから、お前たちも昼間特攻で銃撃に行って体当たりしてこい、と命じられました。明日、出撃することになっています」
「そんな馬鹿な命令があるか!」
と、美濃部少佐は憤りの色を隠さなかった。彼らはレイテ湾の物凄い対空砲火を知らないのである。命令する指揮官も同じだろう。
『特攻とは何か』

だが、一航艦先任参謀の対応は、美濃部少佐を失望させるに

充分であった。
翌日、猪口(力平)大佐は前線視察を命じられると、しばらくは返事をしない。有無を言わさぬ口調で大西(瀧治郎)長官に命じられると、二人きりになった幕僚室で「月光はいやだ。君の戦闘機に乗って行く」と言い出した。
夜間戦闘機月光は複座だが、零戦は単座である。
「何を言っているんですか。単座の零戦にあなたが乗ると、重心が狂う。第一、もし敵戦闘機に見つかった場合、空戦ができませんよ
「それでもかまわん。どうしても、月光はいやだ」
駄々をこねるような猪口大佐の注文で、やむなく後部座席の無線機を外し、空洞ができたところに参謀を横にして積みこみ、セブ基地にむかった。昼間はさけ、薄暮あるいは黎明をねらってレイテ湾上の参謀視察にむかうつもりである。
……
その状況を確認するために準備の偵察飛行に出かけると、三日もたたないうちにセブ基地から猪口参謀の姿が消えた。
「先任参謀はどうされたんか?」
と、留守番の要務士にたずねると、
「もうマニラに帰られました」
との返事。猪口大佐はレイテ湾の敵情視察に一度も出ることなく、一航艦司令部にもどり、また作戦指導にあたることになる……。
『特攻とは何か』

「いくら新鋭機でも、レイテでは米軍機が三層にわたって

待ちかまえている。レーダーで発見すると、一〇〇機ずつ、三層にわかれた戦闘機が迎撃にむかって来る。ここに超低空でも突っ込んで行くと、助かりませんよ。しかも白昼堂々と、ではね。私たちの野戦部隊だから、ごく一瞬の隙をねらって行くために、かろうじて成功するんだ。
それが、参謀連中にはわからない。いくら口をすっぱくして事態の深刻さを説いたところで、実際に自分たちが体験したことがない世界でもわからない。わかろうとしないんですな」(一五三空戦闘九〇一飛行隊 美濃部正少佐)
『特攻とは何か』

大西(瀧治郎)は部下の建言にたいして

怒るわけでもなく、しみじみとした口調でこう言った。
「君の立場がうらやましい。この難局にさいして、しみじみ思う。大海軍といわれた各級指揮官は、残念ながら各部隊を統帥する力がなくなってきている。特攻という、こんなむごい戦争は、悪いということを承知の上だ。多くの非難を受けるだろうが、若いパイロットをいままで育ててきた大西にとっては、考えぬいてのことなんだ。
いま頼りになるのは、若いパイロットだけだ。君のように、しっかり部下を掌握していれば、何でぼくがこんなむごいことを考える必要があるものか」
【特攻とは何か】

2016年11月23日水曜日

戦争終結を知り、彼女はこれで空襲もなくなり、

よく眠れる夜がくると心はずむ気持でいたところ、朝になって父親が無言で鳥居を取り壊しているのに気づいた。
「町内の人たちが建ててくれた鳥居を、どうしてこわすの」
と、何も知らずに実子が抗議すると、父寛助は、「犬死だったな……」としんみりとした口調で言い、
「敬一を、海軍なんかにやるんじゃなかった」(注、朝日隊の上野敬一)
とつぶやき、黙々と鳥居の後片づけをした。その後姿を見て、「はじめて父の哀しみが理解できました」と、次女実子は述懐している。
『特攻とは何か』

現実では勝ち目がないのだが、

観念の世界では勝利はありうるのである。その幻想は、一種の集団ヒステリー現象をまき起こした。すなわち、軍報道部も一体となってこれをあおった「軍神」ブームである。
『特攻とは何か』

すると長官はつづけて、

「こんなことをせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ」
と云った。なおも私が黙っていると、暫くして、
「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」
そうポツンと云った。(『神風特別攻撃隊』より)
『特攻とは何か』

2016年11月20日日曜日

栗田部隊のレイテ泊地突入が、

はたして全海軍作戦にどれほどの貢献をおよぼしたかにはいろいろと議論があるにしても、その行動は、オトリ作戦の犠牲をまったくムダなものにしたことだけはたしかであろう。(元第一機動艦隊参謀・海軍大佐 大前敏一氏)
『激闘の空母機動部隊』

2016年11月16日水曜日

昭和十九年十月二十四日母艦発艦の最後の攻撃隊

「瑞鶴」発艦
零戦十
爆装零戦十一
天山艦攻六(索敵五、誘導一)
彗星艦爆二(偵察)
計二十九機
(既に雷撃隊は組めない様である。マリアナ沖海戦が最後)

「瑞鳳」発艦
(機数特定出来ず)

四隻の空母(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)全部併せて五十八機(攻撃隊発進電では七十六機であったが、十八機が整備不十分ではずされた)
(『空母「瑞鶴」の生涯』、『空母瑞鶴』)

2016年11月12日土曜日

本格的な米軍の反抗がレンドバより始まり、ソロモンに東ニューギニアに連日奮戦。

一ヵ月半後の(昭和十八年)七月十五日には五八二空戦闘機隊は事実上全滅し、解隊され、艦爆だけの航空隊になってしまった。
『修羅の翼』


十五分か二十分くらいして、追々戦闘機が着陸してきた。

指揮官・森崎中尉の、まったくしょんぼりした姿が気の毒でならなかった。それに引き換え、二小隊長(先ほど危急を知らせに着陸してきた搭乗員、日高義己上飛曹)の喰ってかからんばかりの形相が印象的だった。
『修羅の翼』



「長官機が空戦中です、応援頼みます」

と、一言。言葉は丁寧だが血相を変え、形相も物凄く怒鳴りつけると、素早く引き返し、飛び上がって行った。
『修羅の翼』

ラバウルで幕僚と出撃部隊を見送る山本五十六連合艦隊司令長官

「P38の水平速力はやや零戦より優り、

上昇、降下に於ては相当の差あり。敵に戦意無き場合これを捕捉すること極めて困難なり」
『修羅の翼』


2016年11月5日土曜日

いったい軍令部は何を考えているのだろうか。

ワシントン白亜城(ホワイトハウス)下に誓を迫るまでには、まだまだ前途遠く、半ばにも及ばぬこんなところで輸送が続かぬとは、果たして日本は勝てるのだろうか。
『修羅の翼』

「数次にわたる輸送作戦はほとんど失敗に帰して、

補給を断たれたガ島の陸軍は餓死寸前である。このたびの輸送は日本海軍がソロモン水域に動員し得る最後の輸送船団である。これが失敗に帰したならば、後にはもう一隻の輸送船もない。ガ島の陸軍は見殺しにするしかないのである。角田飛曹長はなんとしてでも一時間頑張ってくれ、一時間経てば交代の直衛機が行くはずだから、それまで頼む。船団は夜明けと共に敵の哨戒機に発見されているはずだから、敵襲は必ずある。ちょうど時間からしてもポートモレスビー、ポートダーウィンからの敵機も到着する頃であるから、警戒は特に厳重にするように」
と、沈痛さを含んだ命令である。後の、訓示、訓示というよりも「頼む」と言われた一言が胸を痛める。
『修羅の翼』

九州丸

鬼怒川丸

無事ソロモン水道の中央を抜けるのには何度にしたら良いか、

通い慣れたガダル街道の地図は頭の中に焼き付いている。計算は小学生でも分かる勘定だが、今、視界三十メートル以内、高度三メートルを飛びながら考えたのでは、いくら泣きたくなるほど考えても安全な針路は出てこない。出るのは油汗ばかり、よし、右旋回百八十度。意を決し、バンクをとらずに足だけで少しずつ、少しずつ旋回しようとした。
旋回計の球が中心の目盛りよりちょっと左から外れたと思った瞬間、ただでさえ固くなってピタリと翼を重ねて飛んでいた若杉飛長があわてて離れた。二メートル、三メートル、これはまずいと思って足を戻しながら、ちらっと視線を走らせた時、私の視界のはじで、若杉機は、機首を海面に逆さにつきさし、胴体は座席の後方から真っ二つに折れ、折れた尾部は上空の雲の中に跳ね飛んで見えなくなった!私の航法に間違いがなければ場所はコロンバンガラ島の東南十キロメートルと思われた。
無我の境地で飛ぶこと三十分余りで元のイサベル島南端に出る。高度を上げつつ、初めてどっと涙がでる。胸が痛いほど引き締められる。
若い情熱を戦闘機乗りとしてこの南海の果てまで来ながら、敵との空中戦で敗れたならばやむを得ないが、私ごとき者を指揮官と思えばこそ最後まで頼り切ってついて来たのに……。
……
辛い想い出である。
五八二空戦闘行動調書には、この日の記録がまったく無い。ただ、厚生省にある戦死者名簿に、若杉育造飛長は昭和十七年十一月十三日、コロンバンガラ島上空に於て敵機と交戦戦死と記入されているのみである。
『修羅の翼』


〇九三五、上空の列機をまとめてラエに帰着する。

艦爆に被害はなく、ブナ上空でDC3二機、P39二機の撃墜、一機撃破の戦果をあげた。だが、ちょっとした油断から長尾飛長を自爆させてしまった。水平錐揉みのダグラスのすぐ側を垂直に突っ込んでいった長尾、あれは意識不明の落ち方では無い。明らかに教えられた通りの精一杯の自爆である。
『修羅の翼』


夕方、飛行場より帰って来た輪島少尉から、

昨夜の陸軍の電報は誤りで、ガ島飛行場に着陸しようとした二空戦闘機隊は待ちかまえていたグラマンの包囲攻撃を受け、帰って来たのは長野二飛曹のみ、二神中尉、石川二飛曹、森田二飛曹、生方飛長は自爆。
事実上、二空戦闘機隊は全滅に近い打撃を受けてしまったと聞かされた。
『修羅の翼』


2016年11月3日木曜日

これ以来、私は撃墜競争には加わらないことに決心した。

敵戦闘機を落とすよりも味方機を落とされないように戦うのが直掩戦闘機の任務である。自爆する味方攻撃機を見て身に沁みて感じたのであった。
『修羅の翼』

自爆する陸上攻撃機

近づくうちに、キラリキラリと敵機が切り返す時の金属の輝きが見える。「しまった、攻撃を受けているのだ」ただちに本隊を追うのを止め、右方の一個小隊を追う。
明らかに四機のグラマンが陸攻に反復攻撃を繰り返している。
……
私はいまだ射距離に追い付けなかった、もう少し、もう少しと祈るなか、ようやく近づき、少し遠いがとにかく撃とうと狙いを定める。四機のF4Fは、すでに気付いていたのか、一斉に急降下し、くもの子を散らすように避退してしまった。
私は黒煙が次第に大きくなり、チョロチョロと火を吐き出した被弾機が気になり、追撃を止めて陸攻に近づいた。見ていると、被弾機は「バアッ」と大黒煙を吐き、火は消えた。消火器のガスが利いたようだった。片エンジンでも飛べる、ほっと安心する暇もなく、ガス煙の消えた後からまたチョロチョロと赤い炎が見えた。私は右胴体に寄り添ってみるが、手の出しようがない。炎はだんだん大きくなる。消火器のガスは一度しか使えないらしい。搭乗員が四、五人窓ガラスに顔をつけるようにして手を振る。不思議と平静な様子だった。
私は機番号をしっかりとメモ帳に記入して置いたのだが、今となっては思い出すことができない。陸攻は急に大きく右旋回をすると、機首は百八十度変針、ガダルカナルに向けられた。高度は下がる火勢は強くなる。とてもガ島までは戻れまい。しかし、この場に及んで機首を敵地に向けた搭乗員たちの気持を思うと、しばらく後を追いながら涙が出て我慢できなかった。
やがて、火勢が右翼を覆うようになると、今はこれまで、と思ったか、機首を下げ、海面目がけて真っすぐに自爆の態勢に入っていった。七人の搭乗員を乗せたまま……。
『修羅の翼』
ラバウルに進出した一式陸攻

受け持ちの搭乗員が上空に行くと不調になるというエンジン、

もし間違っても胴体にもぐり込んでいる整備分隊士には脱出の機会はない。まさかそれを知って自分だけ落下傘降下することはできない。たぶん大丈夫とは思ったが万一の時は、男同士一緒に死んでも悔いはない、と思った。
しかし、試飛行には念を入れ随分急激な運動をしてみたが好調だった。さすが七十キロ以上の巨体の和田分隊士も降りた時はしばらく口も利けない様子だったが、「大丈夫です。搭乗員の気のせいでしょう。どこも悪いところは無いですよ」と言うと、「そうかッ」と嬉しそうだった。このような本当に生命がけの整備員に支えられてこそ、私たち戦闘機隊は安心してどこまでも飛べるのだ。
同じ一分隊士なので特に印象に深いものがあった。
『修羅の翼』