太平洋戦争研究会
~太平洋戦争の真実を追う~
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2016年7月15日金曜日
真珠湾へ
宇佐 五航戦艦攻
大分 同右 艦爆
大村 同右 艦戦
「瑞鶴」の飛行機隊は宇佐、大分、大村を基地として、月月火水木金金の猛訓練に入った。
『空母「瑞鶴」の生涯』
2016年6月5日日曜日
「赤城」でも集合煙突を右舷舷側から海面に向かって
突き出さす方法が採用された。結果的には成功であった。しかも高熱の排煙ガスが艦尾付近での気流を乱さないために、着艦作業が進められている時には、煙突の先端で多数のダクトから海水を霧状に噴霧し、排煙ガスの温度を低下させ気流の流れを安定させる方式が採られたのであった。この方式は成功し、以後建造された多くの日本の航空母艦の特異な構造の煙突を出現させたのであった。
『航空母艦「赤城」「加賀」』
2016年5月5日木曜日
瑞鶴の建造は昭和13年5月25日、神戸の川崎重工で始まり、
昭和16年9月25日に竣工した。
㊂計画の中心は、戦艦大和、武蔵と空母瑞鶴、翔鶴の建造である。
2016年5月2日月曜日
ダンケルクの内部に残るしかなかった負傷兵は、
それよりはるかに過酷な状況に見舞われ、看護兵や軍医は、かれらを励ますこと以外、ほとんどなにもできなかった。
『第二次世界大戦 1939-45』
2016年4月29日金曜日
日支事変以来、ラバウル、ソロモン、ニューギニア、
硫黄島、台湾沖、そしてフィリピンと、修羅場をくぐってきた角田(和男)さんは、ベテランなるが故に特攻隊の直援(ママ)や戦果確認の任務が多く、仲間や部下の体当たりを見届ける辛い非情な役目を耐え抜き、終戦まで生き延びた。生き残ることは、彼にとって重い負担であったに違いない。(元第一航空艦隊副官、門司親徳氏)
『修羅の翼』
2016年2月28日日曜日
ジューコフ将軍は早速、
敵に投降した兵士の”家族”にかんするスターリンの指示をさらに厳格化することを決め、現場の各指揮官にこう申し渡した。「すべての兵士に周知徹底させよ。敵に降伏したら、諸君の家族はひとり残らず銃殺にかけるし、諸君自身も、収容所から戻ったあとは、即刻銃殺刑だ」と。
『第二次世界大戦 1939-45』
ゲオルギー・ジューコフ
なるほどソ連軍は、背後に督戦専門の政治士官や将校がいて、
兵の背中に銃口を突きつけ、突撃を強制することがままあったけれど、ソ連兵はそれでも、そうした土壇場に置かれると、必死に勇気をふりしぼり、戦いを継続するのだった。
『第二次世界大戦 1939-45』
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