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2013年10月14日月曜日

戦訓8 ― ミニ・ミッドウェー

昭和十七年(一九四二)四月五日のインド洋作戦におけるセイロン島沖海戦で、二度にわたる兵装転換にともなう攻撃隊発進の時期遅延があった。『ミニ・ミッドウェー』ともいうべき事件である。しかも状況はウリ二つといってよいほど酷似したものであった。

南雲機動部隊は、セイロン島コロンボの飛行場や港湾施設、船舶、兵舎などを攻撃したが、総指揮官淵田美津雄中佐は、破壊の程度は不十分として、十一時十八分、第二次攻撃の必要性を報告した。

一方、インド洋上の機動部隊では、敵艦隊の出現にそなえて、「赤城」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」の五隻の空母の飛行甲板には、魚雷を装着した艦攻六三機、徹甲爆弾を吊下した艦爆六九機が待機していた。

南雲長官は指揮官機からの電報をうけると、十一時五十二分、「第三兵装」即ち、艦攻の魚雷を八〇〇キロ陸用爆弾に、艦爆の徹甲爆弾を二五〇キロ陸用爆弾にする兵装転換を下命した。

この作業中に第一次攻撃隊が帰ってきた。飛行甲板では収容作業がはじまり、これが午後一時二十五分までつづいた。
ところが、収容中の午後一時に索敵に出ていた水偵より、「敵巡洋艦らしきもの二隻見ゆ」との緊急信が入ってきた。

南雲長官は、一時二十三分、作業中の第二次攻撃隊に対し、「敵巡洋艦攻撃の予定、艦攻はできうるかぎり雷撃とす」と指示、「兵装元へ」と下令した。

この後、発見した敵艦が駆逐艦だ、いや重巡だと、情報の混乱があったが、午後二時十八分、
「攻撃隊は一五〇〇(午後三時)発進、敵巡洋艦を攻撃せよ、間に合わざるものは後より行け」
と下令された。

一五〇〇なら再換装の発令から約一時間半後である。艦爆なら間に合うはずだ。事実、三時ころ、「赤城」「蒼龍」「飛龍」から換装を完了した合計五三機の艦爆隊が急速発進した。
しかし、この時点でも、再換装中の艦攻隊は、まだほとんど飛び立てる状況ではなかった。
艦攻全機の魚雷装着が終わったのは、午後四時三十分ころであった。最初の兵装転換命令から、じつに四時間四十分もたっていた。

結果的には、この間に戦況は変化しており、発進した艦爆隊だけで敵重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈してしまったので、艦攻隊は出動しなくてすんだ。

この時の戦闘では敵からの攻撃がなく、味方の一方的な進撃態勢だったので、コトなきを得たが、万一、敵に先手をとられていたなら、味方の被害は絶大なものであったはずである。

ミッドウェー海戦では、これとまったく同じ状況が現出した。
もし南雲長官や幕僚たちが、兵装転換の所要時間を熟知していたなら、ミッドウェーで同じような命令を出したであろうか。
やはり戦訓無視の姿だったと思われる。

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