「太平洋戦争の真実を追う」が拙ブログの副題である。
然るに、今まできちんと読み学んで来なかった自己の怠慢を真に恥じつつも、やはり避けて通ってはいけないと考えたしだいである。
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死者は記憶されることで生きる。時代の推移と状況の変化にもかかわらず、読者に受けとめようとする誠実な意志があるかぎり、戦没学生のどの言葉も、読者の胸に刻まれるにちがいない。
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若い戦歿学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争とあの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。
今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸君の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。
しかし、追いつめられた若い魂が、――自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。
現在流行している戦争ルポルタージュの一切に見られない貴重なヒューマン・ドキュメントの数々が、本書に見られる。
若くして非業死を求めさせられた学徒諸君のために…
合掌
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