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2014年12月29日月曜日

ご存知の通り、来年はちょうど終戦70周年に

当たります。私が近所の本屋で「絵とき日本海軍」を買ったのが終戦30周年の時でした。本日改めて読み返してみて、分かりやすく書かれていると感じると共に、この40年を思わずにはいられない気持ちでおります。時代も変わったと感じております。

2014年12月28日日曜日

「憐れなまでに勇敢を強要された」(五味川純平『ノモンハン』)

ノモンハン事件の教訓は生かされず、一個師団壊滅というその内実は国民に知らされることなく、あくまで"事件"として内密に処理された。もはや八九式中戦車、九七式中戦車、九五式軽戦車などでは、ノモンハン事件当時のBT戦車とは戦えても、T-34中戦車には相手にもならない。関東軍総司令部は、居留民を置き去りにして、ソ連参戦の戦闘三日目の八月十一日、いち早く新京を捨てて小型飛行機で南部の通化へと移転した。「各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善をつくすべし」
日本の組織が抱える"無責任"がここにある。



「加賀の最後を見届けてから、

僚艦萩風とともに、舞風は、赤城の護衛についていた嵐と野分に合流しました。嵐には司令・有賀幸作大佐がおられたが、この方は実に豪胆な人でね……後に大和艦長として沖縄特攻で戦死されましたが……アメリカ機動部隊がすぐそこにいるのに、平文で各艦に電報を打ってくるんですな。"今夜半会敵ノ際ハ刺シ違エ戦法ニテ全軍突撃スベシ"——くるならこい、というところでしょうが、噴煙をあげる赤城を眼の前にして、この電報でしょう、本当に泣かされましたよ、感激しました……」(同、中杉少佐)
駆逐艦魂ここにあり、というところなのであろう。
『完本・列伝 太平洋戦争』

「それは舞風ばかりじゃありません。

ほかの七隻の駆逐艦だって同じことです。残骸となった航空母艦を護り、見方には遠くおきすてられ、敵の飛行機や潜水艦の脅威にさらされている。こりゃ、いい気持じゃありませんでした。しかし、それが自分の戦争だと思えば、敗け戦さにへこたれちゃいられません」(中杉清治少佐)
『完本・列伝 太平洋戦争』

2014年12月14日日曜日

真崎(甚三郎)、荒木(貞夫)ならびに

川島(義之)陸相のごときは堂々と「維新部隊」(杉山メモ)と呼んでいたらしい。
『昭和史発掘』

九段坂上から半蔵門にかかると重機や

着剣の歩哨線にひっかかった。

「俺は憲兵司令官岩佐中将だ。お前らの指揮官に会いに行くのだ。ここを通してくれ」
中将と歩哨との対決である。
「駄目だ!かえれ、かえらないと撃つぞ」
司令官は、兵のこの態度に、いかりに全身をふるわせながら、
「お前達はそれでも天皇陛下の軍人か」
両頬には涙が流れていた。
この有様を後方から眺めていた下士官が、
「問答無用だ。早くかえれ!射つぞ!」
と大声でどなった。すでに一人の兵隊は重機の引金に手をかけている。傍の副官はこの緊迫した空気に、
「閣下、間違いのないうちに引返しましょう、大切な仕事が沢山あります」
副官はムリに司令官を車の中に押入れて後退した。(大谷敬二郎著『昭和憲兵史』)

『昭和史発掘』

2014年12月12日金曜日

「あれは他人の報告や意見ではない。

俺が三回、自分で追って追いつけなかったんだ。ワシントンは零戦では落とせないぞ。俺が言わなきゃ、司令部はいつまでもわからんじゃないか」(角田和男)

前線視察中の山本五十六聯合艦隊司令長官の搭乗する一式陸上攻撃機がP-38に撃墜され、長官が戦死したのはそのわずか四日後のことであった。
『特攻の真意』

2014年11月24日月曜日

「ほどなく安藤中隊長が来た。

夫人もどこからか現れ、倒れた(鈴木)侍従長の側に正坐して微動だもしなかった。その夫人の姿は、三十年後の今日でも忘れることが出来ない。実に立派な態度だった。
安藤中隊長は夫人に向かって、
『麻布歩兵第三連隊第六中隊長、安藤輝三』
と名乗った。襲撃理由は、昭和維新断行のため、とだけいった。
夫人は何もいわず正坐をつづけていた。
しばらくすると中隊長は、
『まだ脈がある。武士の掟により閣下にとどめを……』
といった。安藤中隊長は既に軍刀の柄に手をかけていた。正坐していた夫人が初めて口を開いた。
『それだけは私に任せて下さい』
少しも取り乱したところはなかった。
『では、とどめはやめます』
中隊長はそういって立ちあがると、倒れている鈴木侍従長に挙手の礼をした。私たち全員は捧げ銃の礼をとった」(同、奥山元軍曹)
『昭和史発掘』

「『どこの兵隊だ?』

(鈴木貫太郎)侍従長は云った。
『麻布歩兵第三連隊』
と私は答えた。
『なんのために来たのか?』
『自分には分りません。中隊長を呼ぶから、詳しいことは中隊長からきいてください』
私がそう答えたときだった。背中で拳銃の発砲する音がし、銃弾が私の耳をかすめた」(奥山粂治元軍曹)
『昭和史発掘』

「明治神宮に参拝するということで出発した。

営門を出ると右に折れ、まもなく連隊の塀の前でとまった。そこで実弾を支給された。五発ずつで、雑嚢から出して渡された。
中隊長に注目の号令がかかった。中橋(基明)中尉は『これから国賊高橋是清を葬る。右向け、前え』といった。これは大変なことになったと私は思った。しかし命令に従うほかなかった」(三浦作次元上等兵)
『昭和史発掘』

「不寝番の声がいつもと違って『非常』

『非常』と押し殺したような低い声だったのでおかしいと思った。演習服を着たところ、今日は二装だといわれ、あわてて着かえた。
近衛兵は、一装、二装、三装、演習服と持っていた。一装は儀仗兵に出るときのものである。演習服でなく、なぜ二装でなければならないのだろう。へんだな、と思った。
また、誰かが機関銃の銃身がいつの間にか空包用から実包用に変っているといっていた」(伊藤健治元一等兵)
『昭和史発掘』

「連隊本部の近くに機関銃隊が整列していた。

地面に置いた機関銃を見ると実包銃身になっている。私がなおも覗こうとすると、傍にいた栗原(安秀)中尉が、
『衛兵司令、出て行け』
と怒鳴った」(同、関根元上等兵)
『昭和史発掘』

「山口(一太郎)大尉は、戸山射撃場に行くのだから

心配はない、と繰りかえすばかりだった。
『これまで兵が班内で実弾をもらったことはありません』
私がそういうと、山口週番司令から、
『生意気云うな』
と怒鳴られた」(関根茂万元上等兵)
『昭和史発掘』

2014年11月22日土曜日

一番機が突入した敵空母の飛行甲板の穴を

狙って突っ込んだ二番機、被弾して火の玉のようになりながらも最後まで操縦を誤らず、一直線に敵空母に体当りした三番機。出撃の時の屈託のない笑顔。……そんな情景が、つい最近のことのように鮮明に思い出されるのだ。
『特攻の真意』

2014年11月9日日曜日

天皇のもっとも信頼しているのが倒れた重臣個人にあったというよりも、

重臣組織にあったとみるべきであり、その破壊は、天皇の「首ヲ真綿デ締メルニ等シキ」という言葉に表される天皇制の「圧殺行為」というように解することができよう。「蹶起」の青年将校らが聞いたら驚倒する天皇の激しい言葉である。
『昭和史発掘』

2014年11月4日火曜日

戦時の際も、中央部や高等司令部は

天保銭をもって満たされている。しかし、もし彼らが敵弾下にさらされようものなら、ほとんどが臆病者なのである。ところが、論功行賞ともなれば、臆病者の参謀が殊勲甲である。最前線で奮戦した中隊長はやっと『殊勲乙』しかもらえない。はなはだしいのは内地の官衙在勤者(陸軍省、参謀本部など)が戦線にいた中隊長よりも功績の上で上位となる。

天保銭組(陸大卒)は幕僚として中央に

あって作戦や軍政にたずさわり、隊付将校を指揮統率している。ところが、隊付将校は、いざ戦争となると第一線に立つ消耗品で、真に兵と生死をともにする。それが後方の安全地帯で作戦指導する幕僚に頤使(いし)されるのだから、その「不合理」に隊付将校は憤懣をおぼえている。
『昭和史発掘』

2014年11月1日土曜日

海軍は戦争を指導し、敗戦という結果を招いた。

その中心だった軍令部のメンバーの多くは、戦後、後継組織の第二復員省へと移り組織を挙げて真実を隠匿し、組織を守るための裁判対策を実施した。その結果、多くの事実が表に出ることなく歴史の闇に埋もれていった。

いま私たちの社会を覆う停滞感が、何が起きても誰も責任を取らない無責任の連鎖の末にあるのだとしたら、その起点は一体どこにあるのか。その一つは、あの戦争に、私たち日本人がしっかりと決着をつけていないことなのではないか。誰も本当の歴史を語らず、敗戦の責任を取るべき人たちがそうすることのなかった戦後日本の出発点にこそ、現代の閉塞感の起点があるのではないか。
『日本海軍400時間の証言』

「東京裁判を終えた日本弁護団が異口同音に、

陸軍は暴力犯、海軍は知能犯、いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分であると」(豊田隈雄元大佐)
『日本海軍400時間の証言』

「上を守って下を切る」

(豊田隈雄)元大佐の部下で、BC級裁判の対策を担当していた二復(第二復員省)班長から、弁護人に宛てられた昭和二十一年作成のメモである。
「陛下に塁を及ぼさないために中央に責任がないことを明かにしその責任を高くとも、現地司令官程度で止めるべし」
「問題は責任の遡上をどこで食いとめるか」
『日本海軍400時間の証言』

「あのとき、篠原(多磨夫)大佐が、

”自分は命令をしていない”と裁判で主張していたら、私たちは絞首刑になっていた筈です。艦隊司令部は命令を否定したが、篠原大佐は私たち一兵卒を救うために自ら命令をしたことを認めたんだ。あれから五十八年。いつも篠原さんに感謝しながら生きてきたんです」(法村剛一氏)

「軍隊に属していない人間には分からないかもしれないが、当時の日本軍では上官の命令は絶対だった。上官を無視し、独断専行で命令を出すなんてあり得なかった。全ては上意下達。艦隊司令部の法務官が立ち会っていながら、艦隊司令部は一切命令に関与していないなんて、よく言えたものだと呆れてしまう」(同、法村氏)
『日本海軍400時間の証言』

「『現地部隊が独断で動いた』と

戦後多くの事件について現場指揮官がその責を負いました。実際は、軍令部がそんなことを許すわけがありません。彼らは命令していない、作戦を立案しただけで自分たちに責任はないという立場をとるでしょうが、そんなことはありません。」(元海軍主計大尉・近藤道生氏)
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月28日火曜日

「川尻(勉)君、ああ、ご無沙汰をして

おります。出撃のあの時、あんたと握手して別れた。あれはまだ、いまだに、手に残っております。あんたが輸送船やったかな、撃沈したのを艦長は潜望鏡で確認されておりますので、本当によう首尾よく目的を果たされたなあと思って感激しております。日本はあれ以来、何とか栄えております。どうかご安心ください」(人間魚雷回天の元搭乗員、坂本雅俊氏)

「我々の潜水艦が攻撃を受け、あわやというあの時点、朝の四時、まだ薄暮やったと思いますが、荒川(正弘)君は無事発進されて駆逐艦をやっつけていただいた。関(豊興)さんと荒川君のおかげで潜水艦は助かった。私は故障でその時出られなくて本当に申し訳なかった。もう六十何年、悶々としておりました。あんたらのおかげで生き長らえさせていただいておりますが、本当に申し訳ないと思っております」(同、坂本氏)
『日本海軍400時間の証言』

「軍令部の参謀なんか

本当にくそっ食らえと私は言うんですが、ああいう奴らは戦時中ひどいことをやりながら、自分は戦後関係ないけれど、実戦におった隊長とか参謀とかは非常に苦しみながら、戦後も死ぬまで担(かつ)いだと思います」(大津島出身の元海軍兵士で「回天顕彰会」会長を務める、高松工氏)
『日本海軍400時間の証言』

「父はやむを得ず特攻に関わったと思いますが、

本当はもっと早く戦争を止める努力をするべきだったと思います。発言すべき時に沈黙してしまう、当時から現在につながる空気を感じました。」(中澤佑元中将の長男、忠久氏)
『日本海軍400時間の証言』

……しかし、話が桜花にうつると

態度が変わり始め、「技術は人間が使うためのもので、技術に人間が使われる、または支配されるようなことがあってはならない」と熱く語った。(東京帝国大学工学部を卒業後、海軍航空技術廠で人間爆弾「桜花」の製造に携わった元海軍技術少佐 三木忠直氏)
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月19日日曜日

「直掩」 神風特別攻撃隊・角田和男氏

神風特別攻撃隊葉桜隊、梅花隊、金剛隊、さらに第二〇五海軍航空隊第十七大義隊など十数回にわたって、特攻隊員として出撃した経験がある。

自分自身が特攻作戦を命じられた時は二十六歳だった。部下が皆志望するのを見て「熱望」と書いたという。戦闘機乗りのする作戦ではないという本音は、胸のうちにしまった。
仲間の死と戦果を見届け帰還した角田氏に、ただちに次の命令が下った。神風特別攻撃隊梅花隊に配属されたのである。その命名式で出撃する特攻隊員を前に、白いテーブルに海軍の幹部ずらりと並んだ様子を見て、こう思ったという。
「頭でっかちの海軍の末期的症状」
最前線で日々激戦を生き抜いてきた角田氏は、戦況が如何に切迫しているかを実感していた。
特攻作戦を命じる幹部への不信感も増していった。

(ある特攻隊員のお墓への)お参りの後、角田氏が言った言葉が忘れられない。
「いくら墓参りをしても、亡くなった人は生きて帰ってきませんから」
『日本海軍400時間の証言』

特攻 やましき沈黙

「やましき沈黙」
これ以上に、特攻作戦に代表される、海軍の罪の意味を言い当てている言葉はない。そしてそれは、決して他人事ではない。私たちにも思い当たることだ――。
『日本海軍400時間の証言』

神風特別攻撃隊が初めての

組織的な体当たり攻撃を実施したのは、昭和十九年十月二十五日のことであった。先立つ七月に「大海指」が出ており、そこに「特攻作戦をやれ」と明記されているのだという。しかも、その七月の命令のさらに四ヶ月前の三月には、鳥巣(建之助)元中佐自身が「(回天)特攻作戦をやれ」と指示を受けていたというのである。

(鳥巣)元中佐が送り出した回天搭乗員は八十九人に上った。
当時、海軍のすべての作戦を統括していたのは、軍令部一部長の中澤(佑)元中将だった。つまり、鳥巣元中佐は、中澤元中将が部長を務める軍令部第一部の指示で、回天作戦の参謀を務め、兵士たちを死地に送り出していたのである。
『日本海軍400時間の証言』

「誠にけしからん」と

鳥巣(建之助)元中佐が激しく批判しているのは、その中澤(佑)元中将が、旧海軍のOB団体「水交会」で講演を行った際、「特攻については中央から指示したことはない」という趣旨の発言をしたことについてだった。
『日本海軍400時間の証言』

開戦 海軍あって国家なし

国家の存亡、国民の命がかかっていたこの時期に、海軍首脳部は自分たちの組織のことばかり考えていたのである。後の反省会で、豊田元大佐が、軍部は「陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた」と自己批判するが、海軍を守るために一か八かアメリカと戦争するというのは、まさに「海軍あって国家なし」という思考そのものである。
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月13日月曜日

「いや、それがですな、本当の前線に

実際やってる人間と同じようにですね、本当に腹に入っておったらですね、連合艦隊にね、駄目だと言えたはずなんですよ。」(泉雅爾元大佐)

軍令部と連合艦隊で作戦目的すら共有されず、なれ合いで決まったミッドウェー作戦が、失敗に終わるのは必然だった。
『日本海軍400時間の証言』

第一委員会の政治将校

海軍についての著作を多く持つ工藤美知尋氏は、第一委員会の報告書は「石川信吾(元少将)の手によって作成されたもの」だとして、「日本海軍を太平洋戦争開戦へと傾斜させていった中心人物であるとの仮説を持つ」としている(『日本海軍と太平洋戦争』)。
『日本海軍400時間の証言』

2014年10月4日土曜日

「大体、特攻隊員を送り出すとき、幹部は必ず

こういったんですよ。『必ず自分も後からいくから』。なのに、本当に約束を守って死んだ幹部なんてほとんどいなかった」
『日本海軍400時間の証言』

「海軍は所帯が小さいから、仲間意識が

強くてね。良いところも多いのだけど、困った点は、失敗しても皆で庇い合って責任がウヤムヤになりがちなところなんだよね……」
『日本海軍400時間の証言』

2014年9月14日日曜日

「眼に映るものは、懸命な消火作業と、

そして死者、重傷者の山です。甲板士官の働きぶり。逃げる者は斬る、という意味からでしょうか、抜き身の軍刀をふりかざしながら、一番危険な場所に立って消火指揮をしていた掌整備長、かれの姿はつぎの瞬間に起こった誘爆でけしとび、あとかたもなく消えました。」
(同、後藤仁一氏)

「まず、赤城第一弾命中時、

戦闘機は発艦していたかという御質問ですが、一機だけ発艦しておりました。前便でお答えした福田拓中尉が、その一番機が飛行甲板の突端にでてゆくのと、艦の動揺を見くらべつつ二番機の車輪止めをはずさせる機会をうかがっているときでした。
”敵艦爆、本艦直上、突っ込んでくる!”という意味の声(絶叫といった方がいいでしょう)をきいたと記憶しています。しかし、そのまえにすでに”蒼龍やられました””加賀も……”という声があがり、小生は左遠方の蒼龍、加賀から黒煙がたちのぼるのを見てなかば呆然となっていた最中でした。」
(当時大尉で「赤城」艦攻分隊士の一人であった後藤仁一氏)

2007年12月8日に聴く、1941年12月8日のラジオニュース - YouTube

2007年12月8日に聴く、1941年12月8日のラジオニュース - YouTube

2014年8月24日日曜日

「いいか、俺と編隊を組んだら、

絶対にお前たちジャク(若年搭乗員)が敵を墜とそうなんて考えるな。敵機は俺が墜とすから、とにかく俺について来い。俺が撃ったら、お前たちも、敵は見なくていいから同じように撃て。そしたら協同撃墜になるんだから」
そう、これはかつて、杉田(庄一)がまだ「ジャク」の頃、宮野(善治郎)大尉が初陣の列機に与えたのとまったく同じ注意であった。

宮野機帰らず

「宮野(善治郎)大尉が煙を吐いた中村(佳雄)二飛曹機に不時着の指示を与え、空戦場に引き返してきた後、二度見た。翼端が切ってあり(三二型)、胴体に黄帯二本のマークのついた隊長機が飛び回っているのを見ましたよ」
(八木隆次二飛曹回想)

乱戦の中で二度、八木が見たのを最後に、宮野機の行方は杳として知れなくなった。

宮野の最期の状況については判然としない。

宮野と森崎(武予備中尉)、二◯四空で二人だけの士官搭乗員が二人とも帰らなかったのは、隊員たちにとって大きな痛手であった。

零式艦上戦闘機三二型

「艦爆危うしと見るや、救うに術なく、

身をもって敵に激突して散った戦闘機、火を吐きつつも艦爆に寄り添って風防硝子を開き、決別の手を振りつつ身を翻して自爆を遂げた戦闘機、あるいは寄り添う戦闘機に感謝の手を振りつつ、痛手に帰る望みなきを知らせて、笑いながら海中に突っ込んでいった艦爆の操縦者。泣きながら、皆、泣きながら戦っていた」
(同、大野中尉)

「今や艦爆隊を守り通すために、

戦闘機は自らを盾とせねばならなかった。降り注ぐ敵の曳痕弾と爆撃機の間に身を挺して、敵の銃弾をことごとく我が身に吸収し、火達磨となって自爆する戦闘機の姿、それは凄愴にして荘厳なる神の姿であった。一機自爆すれば、また一機が今自爆した僚機の位置に代わって入って、そして、また、敵の銃弾に身を曝して爆撃機を守った。」
(直掩任務を帯びた二五一空・大野竹好中尉の遺稿)

2014年8月23日土曜日

戦いには必ず「優位戦」と「劣位戦」とがある。

こちらが優位に立っているときと劣勢の場面とでは戦い方が違う。

日本海軍は階級重視で、兵学校を卒業した士官が指揮官として率いていく。指揮官機が状況をわきまえず、勇ましく右へ上昇旋回していくと、坂井(三郎)をはじめベテラン・パイロットたちは、そんなことをしたら敵が上から降ってくるから、と迷う。一部は命令とは反対に左下へ旋回して敵の腹の下へもぐりこむ。そうしていったん敵をやりすごさなければいけない場合だってあることを隊長は知らない。こんな隊長のあとをついてったら全滅する。その隊長は、実戦経験もなく、現場の意見も聞こうとしないから、学校で教わったとおりのことしかできない。学校で教えているのは、かつて零戦がF4Fよりも上昇力その他にすぐれ、機数も多く、パイロットの飛行時間も長かったときに出来上がった優位戦の戦術戦法だった。それを覚えてきた編隊長が、サッと勇ましく右へ上昇旋回しても、何機かはついていくが、おおかたのベテラン機は左下へ回り込んでしまう。もちろん、戦闘が終わって帰ってくると、「なんでお前らは俺のあとをついてこないんだ、軍法会議に掛けて処分するぞ」とものすごく怒られる。

2014年8月17日日曜日

ラバウルにいた五八二空司令・山本栄大佐は、

のちに特攻隊を初めて出した二〇一空司令を務めるが、実に部下思いの情に厚い司令であった。
山本大佐は、戦の無聊を慰める意味もあってか、日記の随所に横文字を漢字に直した「ネイビー当て字」とでも言うべき珍語(?)を残している。

羅春(ラバウル)
乳振点(ニューブリテン)
武加(ブカ)
華美園(カビエン)
乳愛留蘭童(ニューアイルランド)
仙乗寺岬(セントジョージ岬)
防厳美留(ボーゲンビル)
部員、武殷、武允(いずれもブイン)
羅江(ラエ)
羅美(ラビ)
武奈(ブナ)
婆抜、晩愚奴(いずれもバングヌ)
岳海(ガッカイ)
猪威勢留(チョイセル)
部良良部良(べララべラ)
古倫晩柄(コロンバンガラ)
乳情事屋、入城寺屋(いずれもニュージョージア)
伊佐辺留(イサベル)
毛野(モノ)
都楽(トラック)
寝損岬(ネルソン岬)
漏須美(モレスビー)
我足可也(ガダルカナル)

「昭和十七年秋、私たちがブインに進出した頃は、

まだ敵の戦闘機に対し、十分な自信と実績を持っていた。たとえば、二十機対二十機なら必ず勝てる。味方が六割ぐらいの場合なら互角の勝負、というのが、当時の私たちの自信であり、目安であった」(小福田少佐)
ガ島航空撃滅戦は、まさに航空消耗戦であった。疲労と消耗は、熟練搭乗員の相次ぐ戦死と交代要員の未熟、それによる全体の戦力低下の悪循環を呼んでいた。零戦の生産量と搭乗員の養成は、この消耗戦にまったく追いついていなかった。搭乗員の交代はおろか、休養すら与えられない。ソロモンは搭乗員の墓場となりつつあった。

2014年8月16日土曜日

南太平洋海戦

ミッドウェー海戦の時、飛龍雷撃隊で敵空母ヨークタウンに魚雷を命中させた丸山泰輔一飛曹は、この攻撃(隼鷹艦攻隊)でもホーネットに魚雷を命中させている。
「雷撃というのは、サッカーと同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めして初めてゴールできる。私の魚雷が命中したといっても、単機で攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けてくれて戦死したみんなの力なんですよ」(丸山一飛曹談)

出撃前のブイン基地で、

宮野(善治郎)は、実戦では初めて三番機を務めることになった大原亮治二飛に注意を与えた。
「いいか、今日は必ず会敵する。空戦になるから絶対に俺から離れるな。俺が宙返りしたらその通りにやれ、お前は照準器は見なくていいから、俺が撃ったら編隊のまま撃て。すべて訓練と同じ要領だ。わかったな、しっかりやれよ」

「この隊長のためなら」と、

部下を喜んで死地につかしめる人間的魅力、これを「将器」という。戦闘機隊指揮官たる者の条件は、ただ操縦がうまいだけ、敵機の撃墜機数が多いだけではない。年齢や飛行時間でもない。この頃の宮野(善治郎)には、本人が持っていた素質にこれまでの実戦経験が加わったこともあってか、会った瞬間に部下の心を理屈抜きに掌握してしまう、戦闘機隊の将たる器が自然に備わっていた。

2014年8月15日金曜日

加賀を発進し、二番索敵線を担当した、

九七艦攻としては唯一の索敵機の機長、吉野治男一飛曹(甲二期、のち少尉)は、今も憤りを隠さない。
「雲の上を飛んでいて、索敵機の任務が果たせるはずがない。私のこの日の飛行高度は六百メートルです。低空を飛んで、水平線上に敵艦隊を発見した瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。敵に遭えば墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよと私たちは教えられていました。たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送、『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は殊勲甲だと言うんですよ。それなのに、雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後そのことを人にも語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

2014年8月13日水曜日

「まかりならぬ」の一言

「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」
彼が言い終えるや否や、(宇垣)長官は即座に大声で答えられた。
「まかりならぬ」
の一言であった。
「かかれ」
……

「岩井、元気で生きていたか。

こうなってきては、古い搭乗員が減ってしまってどうにもならん。気をつけて長生きしてくれよ。おれは今日内地から来た。要件があってダバオへ行く途中だ」
「お気をつけて下さい」
これだけの言葉を交わして別れた。進藤少佐は、昭和十五年の日華事変当時、零戦十三機を率いて重慶を攻撃し、敵戦闘機二十七機を撃墜という輝かしき戦果をあげたときの指揮官であった。

それにしても、中島大尉の

やり方はまずかった。彼は自らの接敵運動のまずさから、初陣において自らの生命を絶った。
彼は射撃の基本である反航接敵、後上方攻撃しか修得していなかったのではなかろうか。
敵を発見したとき、自分が敵より一五◯◯メートルも下方にいながら、敵の目前を、敵より低速でフラフラと上昇し、わずか一◯◯メートルくらいの高度差で切り返し、敵の指揮官機を狙ったのであろうが、自分に速度がないため反覆攻撃ができず、やむを得ず敵編隊の下方へ避退するより方法がなかった。しかし速度不足のため、すぐ敵に食いつかれ、火を噴いてしまったのである。
接敵運動の良否は、勝敗の七割を決するのである。指揮官機たる者は十分心すべきことである。

2014年8月12日火曜日

比島沖海戦

「わが機動部隊の任務は、レイテ湾に突入する目的をもって、ボルネオ方面より北上しつつあるわが連合艦隊が、目的を完全に達成し得るよう、側面からこれを援助し、連合艦隊の行動を容易に導くためのものである。わが艦隊は全滅するとも、この主力部隊の行動を支援する決意である。マニラにある二◯一空の戦闘機隊は、搭乗員の熱烈なる志願の結果、爆弾を搭載して敵空母に体当たりすることが決定した(これは関行男大尉らのわが国最初の特別攻撃隊敷島隊を指す)。諸子は小官の意を諒とし、決意を新たにして任務を全うせよ」
私はこの小沢長官の訓示を目前で聞き、いよいよ来るべきものが来たなァと思った。

訓練時において私(岩井 勉)たちは、

自分より上官である士官を列機に従えて離陸し、空戦を教え、射撃を教え、帰着後、
「あなたは今こんなことをされたが、あんなことをしてはいけません。実戦の場合には落とされてしまいますよ」
と丁重に注意する。もちろんこれらの上官は、
「そうですか、注意します」
と素直に答えてくれるが、これが一度出撃するとなると、彼らは私たちの指揮官としてわれわれの前に立ち、敵地に誘導し、敵機と第一撃を交えるまでは、彼に従わざるを得ないのである。
檜舞台において主従が交代し、指揮のまずさから不利な空戦を強いられ、出さずにすむはずの犠牲を多く出したことは、海軍の制度の誤りがそうしたのであって、数々の反省事項中、最も大きく指摘されなければならない点であると考える。

艦隊が之ノ字運動をやりながら警戒航行中、

見張り員が突然、
「右三◯度潜望鏡」
と叫んだ。今まで、之ノ字運動ながら整然と航行していた各艦は、思い思いの行動をして右往左往して混乱した。
私たちは潜望鏡の所在をつきとめようと海面に目を凝らした。しばらくして見張り員が、
「いまのはビール瓶の誤り」
と報告してきた。わずかビールの空瓶一本に、連合艦隊が肝を冷やされた一幕であった。

洋上着艦するとき、

波とうねりのため、艦尾で二メートルの上下の揺れがあるのが普通である。そのうえローリングはしているし、艦尾を左右に振っている。この三つの動きを同時にしている母艦に着艦するのだから、正に神技といっても過言でないと思う。昼間はまだしも、夜間着艦となるとなおさらのことである。

2014年8月11日月曜日

私(岩井 勉)は「い」号作戦に

全部参加したが、どの出撃のときにも、ラバウルの戦闘指揮所の前には、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の白い夏装の軍服姿が見られた。
私は戦闘機隊なるが故に、最初に離陸し、飛行場上空で後続の攻撃隊を待つ間、砂煙の立ちこめる離陸線の付近に立たれ、最後の最後まで軍帽を振っておられる白い軍服姿が、上空からよく見えた。
この長官が、その四、五日後に戦死される運命を背負っておられるとは、誰が想像したであろうか。
山本長官戦死の前日、昭和十八年四月十七日、「い」号作戦は終了し、われわれ母艦航空隊は、ラバウルを八時発進、十二時に全機トラック島に引き揚げたのである。

「い」号作戦、昭和十八年四月十二日、

一式陸攻四十三機を戦闘機百二十四機が掩護し、ポートモレスビーを目指して一路進撃が開始された。
陸攻隊は左に九◯度変針して爆撃進路に入った。前下方に飛行場が見える。
そのうちに、ものすごい対空砲火が、われわれをすっぽり包んでしまった。
しかし、陸攻隊はこの無数の黒煙のなかを、整然たる隊形で微動だにせず進んでいく。われわれはその六◯◯メートル上空を、陸攻隊をかばうようにして進んだ。
やがて爆弾が一斉に投下された。その瞬間、右側にいた一式陸攻一機がエンジンから黒煙を吐き出した。黒煙はますます長く太くなっていく。対空砲火にやられたのだ。しだいに戦列から離れ、右方へ降下しながら、海岸に碇泊中の艦船を狙っているように身受けられる。生きることを断念し、体当たりを決意したのだろう。悲愴感が背筋を走る。

第二群と第三群が上方から攻撃を

かけてきたならば、目前の敵第一群を棄てて、新たな敵に向かって、下から突き上げていかなければいけない。敵はたとえ優位であっても、下からまっしぐらに頭をもたげて反撃してくる戦闘機はやはりこわい。敵の射弾は、いちばん先頭に立って反撃するこの機に集中して危険ではあるが、しかしこれを敢行しなければ味方がやられてしまう。
またこのとき、まともに撃ち合ってはいけない。撃ち合うようなマネをしながら、敵機の射弾をそらしつつ、優位に立つべく、じわじわと逆転のチャンスを狙うのである。急上昇反転を二回もやると、若い列機も気がついて、新しい敵にかかっていく。

2014年8月10日日曜日

列機B-17に体当たり

「い」号作戦、 昭和十八年三月三日、瑞鳳戦闘機隊はニューギニアのラエへ向かう輸送船団の上空哨戒のためカビエンを発進。
私(岩井 勉)の列機の牧正直飛長は、このときB-17に体当たりを敢行し、双方の機体が二つに折れ、卍巴(まんじどもえ)になって落下していった。
要塞と敵の誇れしボーイング、
墜とすは誰ぞ、あゝ体当り
牧飛長は後日、二階級特進の栄に浴し、その武勲は全軍に布告された。

2014年8月9日土曜日

開戦日は、とくにハワイ空襲に

好都合な条件を考えて、すでに陸海軍作戦当局者の間で決定されていた。米艦隊が多く碇泊し、油断しがちな日曜日、そして攻撃隊発艦に便利な残月が日出前まで輝く日ーー十二月八日である。十一月七日、山本五十六連合艦隊司令長官は、準備命令とともにY日(開戦概定日)を指示した。
機密連合艦隊命令作第二号
昭和十六年十一月七日 佐伯湾旗艦長門
連合艦隊司令長官 山本五十六
連合艦隊司令
第一開戦準備ヲナセ
Y日ヲ十二月八日ト予定ス(終)

2014年1月4日土曜日

昭和十一年二月十六日の夜、憲兵隊や

警視庁に衝撃を与えた事件が起った。
《常磐(稔)少尉ハ週番中、二月十六日午後十一時、所属中隊下士官兵百五十名ニ対シ非常呼集ヲ行ヒ之ヲ引率、駈歩ニテ警視庁東側二到リ、同庁二面シテ一列横隊トナシ「斉藤」「牧野」ト連呼シ直突三回ヲ実施セリ》
「直突」(ちょくとつ)というのは着剣銃を肘の高さにあげ、剣尖を敵の心臓目がけて力いっぱい突き出すをいう。白兵戦に用いる刺突法だ。

皇道派青年将校たちは相沢事件が

起ると昂奮した。同事件でもっとも大きな刺戟と昂奮とをうけたのは青年将校たちである。
彼らは、四十七歳の相沢が永田を敢然として斬ったことに激しい感動をおぼえた。あの年寄りの相沢さんがやった、われわれ若い者がやらなければならないことを老先輩が先に実行した、申訳のないことである、相沢さんに済まない、われわれは後れをとった、こうしては居られない。――この感激が彼らをより激しく行動的な心理に駆りたてた。