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2013年10月20日日曜日

戦訓10 ― 兵力は集中すべし

昭和十七年五月八日に起きた珊瑚海海戦は、日米の空母対空母の最初の激突であった。
ポートモレスビー攻略部隊の船団を擁護する「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦と、これを阻止しようとする米軍の「レキシントン」「ヨークタウン」の機動部隊との正面衝突である。
珊瑚海海戦の戦訓は、まず第一に航空母艦兵力の小出しによる失敗である。このことは日米両軍ともにいえる問題である。
米軍は当時、「エンタープライズ」と「ホーネット」が南太平洋で行動していた。この両艦が参加していたなら、「翔鶴」はもとより「瑞鶴」も喪失していたであろう。
また反対に、日本側に「蒼龍」「飛龍」の二航戦がともに投入されていたなら、米空母二隻を完全に撃沈し、ポートモレスビーの攻略は実現していたであろう。
第二の戦訓は、艦隊編成である。
米軍は、空母二隻を中心に置き、その周りを五隻の巡洋艦が囲み、さらにその外周を八隻の駆逐艦がとり巻いて二重の輪型陣を敷いていた。当然のことながらその上空には、警戒の戦闘機群が配されてバリヤーを張っている。
輪型陣による防御壁にはばまれて、味方機の多くが犠牲となっている。
これはもっとも重要な戦訓であったが、当時、日本側では敵空母二隻を撃沈したと信じられており、その”大戦果”の陰にかくれて見落とされていたものである。
日本軍が対空防御に効果のある輪型陣を採用したのは、昭和十九年十月二十四日のシブヤン海における栗田艦隊が最初である。

ミッドウェー作戦での南雲機動部隊の編成をみると、空母四隻に対して、これを護衛する艦艇が戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻の合計十七隻である。
これは珊瑚海海戦での、空母二隻に対して重巡二隻、駆逐艦六隻の護衛艦艇八隻という比率とまったく同じである。これではロクに輪型陣を構成することもできない隻数である。
空母が、敵機の空襲に対してきわめて無力であることは珊瑚海海戦で実証ずみである。もっと厳重な警戒艦の配備を考えるべきであったろう。

さらにまだ問題がある。
当初の予定としては、ポートモレスビー攻略作戦が終了したあと、五航戦をミッドウェー作戦に参加させ、六隻の空母で出撃する予定であった。
ところが五月十七日に内海に帰投した「翔鶴」は、修理を延期されたまま放置された。ドックに入渠したのはなんと、一ヶ月後の六月十六日になってからである。
「瑞鶴」は損傷はなかったが、搭乗員を大量に失っていたので、兵力を回復するため参加が見送られた。
これに対して米軍では、損傷した「ヨークタウン」は修理に三ヶ月かかるとみられていたが、ニミッツ長官の厳命により昼夜兼行の突貫工事を行ない、わずか三日間で修理を終えて五月三十日の朝には装備をととのえ、真珠湾を出港している。
この日米のはなはだしい懸隔をどう見るべきだろう。
ミッドウェー作戦は、珊瑚海海戦の戦訓を無視して実施されたが、その結果を見ると、以前のエラーをふたたびなぞり、悲劇を呼び込んだように見られるのである。

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