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2013年10月13日日曜日

戦訓7 ― 油断の帝都空襲

昭和十七年四月十八日早朝午前六時半ころ、東京の東方七三〇カイリ(約一三五〇キロ)の太平洋上に配備してあった監視艇「第二十三日東丸」(約九〇トンの漁船)が、
「敵航空母艦三隻見ゆ」
との緊急信を発してプツリと消息を断ってしまった。同艇は砲撃により撃沈されたのである。

開戦時に山本五十六連合艦隊司令長官が、日本軍がハワイ攻撃ができるのと同様、米軍も東京攻撃ができるはずだとして、その防衛策として構築した監視バリアーに敵機動部隊がひっかかったのであった。

米軍の艦上機が発進できる攻撃距離は、その性能から、二五〇カイリ(約四六〇キロ)以内とみられていた。
したがって、敵機が東京上空に来襲するのは、明十九日の日の出以降になると判定されたのである。
空母が搭載しているのは艦上機のはずだという常識的先入観が、誤判断の基となったのである。

航空母艦が陸軍の双発爆撃機B25を搭載しているなどとは、日本軍は夢にも考えていなかった。
だれ一人として疑念をはさまなかった。このことは敵戦力を軽視していた証拠であり、常勝気運に有頂天になっていた用兵者たちの緻密さに欠けた戦術眼の濁りであったといわねばならない。

指揮官ハルゼー中将は、ドーリットル中佐の爆撃計画くり上げの決意を採用し、燃料切れのおそれのある中、午前九時ころ、日本の六二三カイリ(約一一五〇キロ)遠方から攻撃隊を発進させた。全機が発進したあと、機動部隊は反転して、真珠湾に向け帰途についた。

午後一時半ころから東京上空にB25が一、二機ずつ、ばらばらに侵入してきた。上空には零戦が待機していたが、敵機が低空で侵入してきたので発見できなかった。
日本軍は完全に意表を衝かれた。空襲警報のサイレンも鳴らず、爆撃されるままで、ついに一機も撃墜することができなかった。
東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸が空襲され、死者四五名、重傷者は一五三名と人的被害が大きかった。物質的損害は少なかったが、市民にあたえた心理的衝撃は大きかった。

勝ちつづけたことから、敵は弱兵であるとの自惚れ心と傲慢心がはびこり、守りを忘れさせ、油断させたのであった。

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