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2013年10月19日土曜日

戦訓9 ― ミッドウェーの悲劇を予告

昭和十七年四月五日、セイロン島沖海戦で南雲機動部隊の艦爆隊が、英重巡「ドーセットシャー」と「コーンウォール」の二隻を撃沈していたころ、その地点から南西約二〇〇キロの海上を、サー・ジェームス・ソマービル大将指揮のイギリス東洋艦隊が北東寄りの針路で東進していた。
この時、南雲機動部隊は、敵艦隊を発見する絶好のチャンスだったのである。
敵の二重巡が南下中だったのはソマービル艦隊に合同するためであった。この両艦を発見したとき南雲司令部では、敵の行動目的が何であるかを推測すべきであったろう。そして彼らの針路方向に疑念をもって、索敵機の捜索範囲をもう少しひろげていたなら、ソマービル艦隊を発見することができたはずである。
この日の夕刻、敵沈没艦の南西約九〇キロ付近まで「利根」の水偵が索敵に飛んだが、午後五時ころ、「敵を見ず」と報告して帰投している。
じつはこのとき、二重巡沈没地点の南西方、約一八〇キロ付近を、ソマービル艦隊が行動していたのである。
「利根」機はすれすれのところで、敵艦隊を見逃してしまったのであった。せめてあと十五分も飛べば、英東洋艦隊の威容を目視することができたはずである。
午後七時九分には、機動部隊の東方側面海上の哨戒配備についていた駆逐艦から、敵機発見の信号があった。ただちに「飛龍」から零戦六機が迎撃に発進した。
この敵機はソマービル大将が放った索敵機で、複葉の雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ二機であった。零戦はこのうちの一機を撃墜したが、他の一機は、太陽方向に遁走、視界外に逃げ去った。
この敵機は明らかに艦上機である。ということは、空母を擁した敵機動部隊が、この方面のどこかにいるということになる。
ところが、南雲部隊の反応は鈍かった。もう夕方でもあり、海上は暮れはじめていたせいもあってか、遁走した敵機の深追いをやめ、新たな索敵機も発進しなかった。
司令部の幕僚たちも、この敵機を深く考えず漫然と見過ごしていた。戦闘詳報にも記録していない。わずかに五航戦(翔鶴、瑞鶴)の戦闘詳報に、
「五日夕刻、敵複葉艦上機らしきもの二機が我に接触したので、付近に敵空母が存在する疑いがある」
と記録されているだけである。
これは一航艦幕僚の重大な怠慢である。敵の艦上機がウロウロ飛び回っている以上、敵機動部隊が待ち伏せしていると判断すべきであろう。
ただちに索敵機を出していたなら、ソマービル艦隊をたちまち発見できたはずである。
このような片々たる情況でも、整理して再検討すれば、索敵の不徹底が大魚を逃していたことに気がつくはずである。
この戦訓の見直しと研究があったなら、後日のミッドウェー海戦で、日本軍は米機動部隊を先に発見していたかもしれないのである。

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