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2016年12月31日土曜日

栗田艦隊が北東から東に針路を変え、シブヤン海に

さしかかったのは、(昭和十九年十月二十四日)午前十一時二十四分のことである。

「右前方潜望鏡!」

艦載機延べ150機が武蔵へ集中攻撃。直撃弾17発、魚雷20発以上を受け浸水量約3万トンに達し、総員退艦命令とともに軍艦旗が降ろされた直後に沈没した。

合掌

「武蔵」沈没地点

2016年12月18日日曜日

最大幅が、ネルソンの三二メートル、

長門の二九メートルに比較して、一〇メートル近くも広いというのは、艦の幅が異常に広い妙な艦型であることを示している。むろんそれは、巨大な主砲を備えた戦艦としては当然の艦型で、巨砲九門の一斉射撃に堪えるためには、艦の幅を思いきってひろげねばならず、また、艦の長さをより短くして、敵からの攻撃範囲を少くしようとするための配慮にちがいなかった。
『戦艦武蔵』

「軍機密に属することなので、

口頭でお伝えします。この度、海軍では、全く同型の戦艦二隻を建造することに決定しました。その第一号艦は、呉の海軍工廠、第二号艦は、三菱重工業株式会社の長崎造船所で建造することに内定しています」(海軍艦政本部本部長、上田宗重中将)
『戦艦武蔵』

主力戦艦長門の艦の最大幅が、

九六フィート(二九メートル)と言われているが、それより一〇メートル近くも幅の広い艦というのは、いったいどれほど大きな艦の建造を予定しているのであろうか。
『戦艦武蔵』

2016年12月17日土曜日

艦隊針路は、ブルネイ湾を出ると北東に向かい、

パラワン島と西方の新南群島の間を抜けてミンドロ島に向かい、(昭和十九年二十四日未明、ミンドロ島南方を東へ向かってシブヤン海に入る予定であった。
『戦艦「武蔵」レイテに死す』


第八艦隊司令長官、三川軍一中将戦闘前訓辞

(昭和17年8月8日日没後(16時30分))

帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニオイテ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着ヨクソノ全力ヲツクスベシ

重巡鳥海

2016年12月15日木曜日

いやすでに敵のまん中にとびこんでしまったのだ。

すべてのことが私の思惑や感情を外れている。たとえようのないはなれ業だ。艦橋は静かであり、「配置に就け」の毎日の訓練のままの姿勢であった。どこにも興奮がない。次の瞬間には歴史に絶した、世界一の殴りこみがはじまるというのに、兵の胸には自分らのこれからすることに対する武者ぶるいも生じていないのか。勇ましい動揺も覚えていないのか。魂を揺すぶられているにちがいないのに、彼らにはそれが予感できないのか。艦橋には鋼鉄と同じ性質の意志をはらんで、がっしりとかまえ、鳴りをしずめていた。(丹羽文雄氏)

『完本・太平洋戦争  海戦 ーー第一次ソロモン海戦ーー』

2016年12月14日水曜日

人間を兵器と見なし、そして相手方の艦艇に体当たり攻撃を

行うに至った。「十死零生」というこのような戦術を強行した軍事指導者は、近代日本のなかのもっとも恥ずべき指導者として相応の批判を受けて当然である。直接にこういう戦術を行うよう指示した指揮官とは別に、巧みにこの作戦を特攻隊員たちの主体的意思であるかのように装った指導者たちも明確に責任を問われるべきではないかと思う。
『「特攻」と日本人』

2016年12月11日日曜日

日本軍航空隊は、(昭和17年)8月7日に続き

翌8月8日も零戦15機、陸攻23機でガダルカナル島の連合国軍艦艇に攻撃を仕掛けた。

低空飛行で弾幕を潜りアメリカ艦隊に雷撃を試みる一式陸上攻撃機の編隊(8月8日)

「敵機!敵機!海上に敵艦船多数来襲!敵襲ッ」

昭和十七年八月七日、アメリカ海兵第1師団がガダルカナル島へ上陸し、2日前に完成したばかりの飛行場を易々と奪われてしまった。
日本海軍は、上陸戦隊を攻撃する為、第八艦隊を出撃させ、ここに第一次ソロモン海戦が惹起された。


2016年12月4日日曜日

日本で最も大きい主力戦艦「陸奥」の

舷側甲鉄が三〇センチの厚さがあるといわれているが、製鋼技術が進歩し薄くて強靭なものができはじめているというのに、それでもなお四〇センチ以上の厚さをもつ甲鉄を舷側にはる戦艦というのは、いったいなんなのだろう。
『戦艦武蔵』

2016年12月3日土曜日

堀(悌吉)少将を無二の親友と敬愛

していた山本五十六は、のちに(海軍記者)伊藤正徳にむかって、「堀を(予備役編入にして)失ったのと、大巡(重巡)一割とどちらかナ。ともかくあれは海軍の大馬鹿人事だ」と切言したという。
『真珠湾攻撃作戦』

山本五十六の海軍兵学校同期生(32期)堀悌吉

謎の北上

静かな北上であった。空母蒼龍は第二航空戦隊(注、以下「二航戦」と略記する。他航空戦隊も同じ)旗艦で、飛龍とともに同(一九四一年(昭和十六年)十一月)十八日、九州佐伯湾を抜錨した。第一航空戦隊の空母赤城はそれに先行し、空母加賀はおくれた。第五航空戦隊(五航戦)の空母瑞鶴、翔鶴は十九日零時に別府湾を進発して北上を開始した。いずれも訓練を装った隠密行である。
『真珠湾攻撃作戦』

2016年11月27日日曜日

(反日ゲリラの)シエナ(軍曹)の腕時計で(昭和十九年十月二十四日)十時半頃、

東側の大艦二隻が相ついで艦側に水柱をまき上げた。大きい方の一隻(武蔵)は水柱が収まると、そのまま航行を続けたが、前方をゆく少し小さい艦(注、妙高)は速力が遅くなった。
『戦艦「武蔵」レイテに死す』

シブヤン海海戦時の戦艦武藏(手前)と重巡洋艦利根(奥)(10月24日15時過ぎ)

2016年11月26日土曜日

それよりも指揮官中島(正)少佐より、

「直掩隊は帰らなくて宜しい、攻撃隊と一緒に突っ込め」
と、命ぜられたことに搭乗員たちは納得し難い感じを持っているようだったが、詳しいことは他隊のことで分からなかった。
『修羅の翼』

2016年11月24日木曜日

杉田(庄一上飛曹)の操縦は無謀のようにみえてその実、

決して部下を殺さないやり方であった。最初の編隊訓練のさい、杉田は列機の若い搭乗員に向かって、「お前たちはまだ一人前じゃないから、編隊についてくるだけでいい」といった。そして、この火傷だらけの古参搭乗員はいう。——決して、一人で戦争をやろうと思うな。編隊を崩さず、たとえ相手の姿が見えなくてもオレが機銃を射ったら、お前たちも射て。当てようと思うな。お前たちの腕では当たるほうが不思議なのだ。
『敷島隊の五人』

そして突然の「総員集合!」。

夜間飛行訓練用のサーチライトを煌々と点け、ケプガン(注、Captain of Gun-room の意)永田中尉が壇上に立って「お達示」をはじめる。貴様たちの入隊以来の態度を見るに、飛行学生として一人前に育てるためには、まずその根性から鍛え直して行かねばならん。多くはいうまい。いまから貴様たちに修正を加える。足を開け……。
『敷島隊の五人』

しかし、銃撃特攻とは、どんな命令なのか。

「はい、セブで零戦が銃撃に成功しているから、お前たちも昼間特攻で銃撃に行って体当たりしてこい、と命じられました。明日、出撃することになっています」
「そんな馬鹿な命令があるか!」
と、美濃部少佐は憤りの色を隠さなかった。彼らはレイテ湾の物凄い対空砲火を知らないのである。命令する指揮官も同じだろう。
『特攻とは何か』

だが、一航艦先任参謀の対応は、美濃部少佐を失望させるに

充分であった。
翌日、猪口(力平)大佐は前線視察を命じられると、しばらくは返事をしない。有無を言わさぬ口調で大西(瀧治郎)長官に命じられると、二人きりになった幕僚室で「月光はいやだ。君の戦闘機に乗って行く」と言い出した。
夜間戦闘機月光は複座だが、零戦は単座である。
「何を言っているんですか。単座の零戦にあなたが乗ると、重心が狂う。第一、もし敵戦闘機に見つかった場合、空戦ができませんよ
「それでもかまわん。どうしても、月光はいやだ」
駄々をこねるような猪口大佐の注文で、やむなく後部座席の無線機を外し、空洞ができたところに参謀を横にして積みこみ、セブ基地にむかった。昼間はさけ、薄暮あるいは黎明をねらってレイテ湾上の参謀視察にむかうつもりである。
……
その状況を確認するために準備の偵察飛行に出かけると、三日もたたないうちにセブ基地から猪口参謀の姿が消えた。
「先任参謀はどうされたんか?」
と、留守番の要務士にたずねると、
「もうマニラに帰られました」
との返事。猪口大佐はレイテ湾の敵情視察に一度も出ることなく、一航艦司令部にもどり、また作戦指導にあたることになる……。
『特攻とは何か』

「いくら新鋭機でも、レイテでは米軍機が三層にわたって

待ちかまえている。レーダーで発見すると、一〇〇機ずつ、三層にわかれた戦闘機が迎撃にむかって来る。ここに超低空でも突っ込んで行くと、助かりませんよ。しかも白昼堂々と、ではね。私たちの野戦部隊だから、ごく一瞬の隙をねらって行くために、かろうじて成功するんだ。
それが、参謀連中にはわからない。いくら口をすっぱくして事態の深刻さを説いたところで、実際に自分たちが体験したことがない世界でもわからない。わかろうとしないんですな」(一五三空戦闘九〇一飛行隊 美濃部正少佐)
『特攻とは何か』

大西(瀧治郎)は部下の建言にたいして

怒るわけでもなく、しみじみとした口調でこう言った。
「君の立場がうらやましい。この難局にさいして、しみじみ思う。大海軍といわれた各級指揮官は、残念ながら各部隊を統帥する力がなくなってきている。特攻という、こんなむごい戦争は、悪いということを承知の上だ。多くの非難を受けるだろうが、若いパイロットをいままで育ててきた大西にとっては、考えぬいてのことなんだ。
いま頼りになるのは、若いパイロットだけだ。君のように、しっかり部下を掌握していれば、何でぼくがこんなむごいことを考える必要があるものか」
【特攻とは何か】

2016年11月23日水曜日

戦争終結を知り、彼女はこれで空襲もなくなり、

よく眠れる夜がくると心はずむ気持でいたところ、朝になって父親が無言で鳥居を取り壊しているのに気づいた。
「町内の人たちが建ててくれた鳥居を、どうしてこわすの」
と、何も知らずに実子が抗議すると、父寛助は、「犬死だったな……」としんみりとした口調で言い、
「敬一を、海軍なんかにやるんじゃなかった」(注、朝日隊の上野敬一)
とつぶやき、黙々と鳥居の後片づけをした。その後姿を見て、「はじめて父の哀しみが理解できました」と、次女実子は述懐している。
『特攻とは何か』

現実では勝ち目がないのだが、

観念の世界では勝利はありうるのである。その幻想は、一種の集団ヒステリー現象をまき起こした。すなわち、軍報道部も一体となってこれをあおった「軍神」ブームである。
『特攻とは何か』

すると長官はつづけて、

「こんなことをせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ」
と云った。なおも私が黙っていると、暫くして、
「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」
そうポツンと云った。(『神風特別攻撃隊』より)
『特攻とは何か』

2016年11月20日日曜日

栗田部隊のレイテ泊地突入が、

はたして全海軍作戦にどれほどの貢献をおよぼしたかにはいろいろと議論があるにしても、その行動は、オトリ作戦の犠牲をまったくムダなものにしたことだけはたしかであろう。(元第一機動艦隊参謀・海軍大佐 大前敏一氏)
『激闘の空母機動部隊』

2016年11月16日水曜日

昭和十九年十月二十四日母艦発艦の最後の攻撃隊

「瑞鶴」発艦
零戦十
爆装零戦十一
天山艦攻六(索敵五、誘導一)
彗星艦爆二(偵察)
計二十九機
(既に雷撃隊は組めない様である。マリアナ沖海戦が最後)

「瑞鳳」発艦
(機数特定出来ず)

四隻の空母(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)全部併せて五十八機(攻撃隊発進電では七十六機であったが、十八機が整備不十分ではずされた)
(『空母「瑞鶴」の生涯』、『空母瑞鶴』)

2016年11月12日土曜日

本格的な米軍の反抗がレンドバより始まり、ソロモンに東ニューギニアに連日奮戦。

一ヵ月半後の(昭和十八年)七月十五日には五八二空戦闘機隊は事実上全滅し、解隊され、艦爆だけの航空隊になってしまった。
『修羅の翼』


十五分か二十分くらいして、追々戦闘機が着陸してきた。

指揮官・森崎中尉の、まったくしょんぼりした姿が気の毒でならなかった。それに引き換え、二小隊長(先ほど危急を知らせに着陸してきた搭乗員、日高義己上飛曹)の喰ってかからんばかりの形相が印象的だった。
『修羅の翼』



「長官機が空戦中です、応援頼みます」

と、一言。言葉は丁寧だが血相を変え、形相も物凄く怒鳴りつけると、素早く引き返し、飛び上がって行った。
『修羅の翼』

ラバウルで幕僚と出撃部隊を見送る山本五十六連合艦隊司令長官

「P38の水平速力はやや零戦より優り、

上昇、降下に於ては相当の差あり。敵に戦意無き場合これを捕捉すること極めて困難なり」
『修羅の翼』


2016年11月5日土曜日

いったい軍令部は何を考えているのだろうか。

ワシントン白亜城(ホワイトハウス)下に誓を迫るまでには、まだまだ前途遠く、半ばにも及ばぬこんなところで輸送が続かぬとは、果たして日本は勝てるのだろうか。
『修羅の翼』

「数次にわたる輸送作戦はほとんど失敗に帰して、

補給を断たれたガ島の陸軍は餓死寸前である。このたびの輸送は日本海軍がソロモン水域に動員し得る最後の輸送船団である。これが失敗に帰したならば、後にはもう一隻の輸送船もない。ガ島の陸軍は見殺しにするしかないのである。角田飛曹長はなんとしてでも一時間頑張ってくれ、一時間経てば交代の直衛機が行くはずだから、それまで頼む。船団は夜明けと共に敵の哨戒機に発見されているはずだから、敵襲は必ずある。ちょうど時間からしてもポートモレスビー、ポートダーウィンからの敵機も到着する頃であるから、警戒は特に厳重にするように」
と、沈痛さを含んだ命令である。後の、訓示、訓示というよりも「頼む」と言われた一言が胸を痛める。
『修羅の翼』

九州丸

鬼怒川丸

無事ソロモン水道の中央を抜けるのには何度にしたら良いか、

通い慣れたガダル街道の地図は頭の中に焼き付いている。計算は小学生でも分かる勘定だが、今、視界三十メートル以内、高度三メートルを飛びながら考えたのでは、いくら泣きたくなるほど考えても安全な針路は出てこない。出るのは油汗ばかり、よし、右旋回百八十度。意を決し、バンクをとらずに足だけで少しずつ、少しずつ旋回しようとした。
旋回計の球が中心の目盛りよりちょっと左から外れたと思った瞬間、ただでさえ固くなってピタリと翼を重ねて飛んでいた若杉飛長があわてて離れた。二メートル、三メートル、これはまずいと思って足を戻しながら、ちらっと視線を走らせた時、私の視界のはじで、若杉機は、機首を海面に逆さにつきさし、胴体は座席の後方から真っ二つに折れ、折れた尾部は上空の雲の中に跳ね飛んで見えなくなった!私の航法に間違いがなければ場所はコロンバンガラ島の東南十キロメートルと思われた。
無我の境地で飛ぶこと三十分余りで元のイサベル島南端に出る。高度を上げつつ、初めてどっと涙がでる。胸が痛いほど引き締められる。
若い情熱を戦闘機乗りとしてこの南海の果てまで来ながら、敵との空中戦で敗れたならばやむを得ないが、私ごとき者を指揮官と思えばこそ最後まで頼り切ってついて来たのに……。
……
辛い想い出である。
五八二空戦闘行動調書には、この日の記録がまったく無い。ただ、厚生省にある戦死者名簿に、若杉育造飛長は昭和十七年十一月十三日、コロンバンガラ島上空に於て敵機と交戦戦死と記入されているのみである。
『修羅の翼』


〇九三五、上空の列機をまとめてラエに帰着する。

艦爆に被害はなく、ブナ上空でDC3二機、P39二機の撃墜、一機撃破の戦果をあげた。だが、ちょっとした油断から長尾飛長を自爆させてしまった。水平錐揉みのダグラスのすぐ側を垂直に突っ込んでいった長尾、あれは意識不明の落ち方では無い。明らかに教えられた通りの精一杯の自爆である。
『修羅の翼』


夕方、飛行場より帰って来た輪島少尉から、

昨夜の陸軍の電報は誤りで、ガ島飛行場に着陸しようとした二空戦闘機隊は待ちかまえていたグラマンの包囲攻撃を受け、帰って来たのは長野二飛曹のみ、二神中尉、石川二飛曹、森田二飛曹、生方飛長は自爆。
事実上、二空戦闘機隊は全滅に近い打撃を受けてしまったと聞かされた。
『修羅の翼』


2016年11月3日木曜日

これ以来、私は撃墜競争には加わらないことに決心した。

敵戦闘機を落とすよりも味方機を落とされないように戦うのが直掩戦闘機の任務である。自爆する味方攻撃機を見て身に沁みて感じたのであった。
『修羅の翼』

自爆する陸上攻撃機

近づくうちに、キラリキラリと敵機が切り返す時の金属の輝きが見える。「しまった、攻撃を受けているのだ」ただちに本隊を追うのを止め、右方の一個小隊を追う。
明らかに四機のグラマンが陸攻に反復攻撃を繰り返している。
……
私はいまだ射距離に追い付けなかった、もう少し、もう少しと祈るなか、ようやく近づき、少し遠いがとにかく撃とうと狙いを定める。四機のF4Fは、すでに気付いていたのか、一斉に急降下し、くもの子を散らすように避退してしまった。
私は黒煙が次第に大きくなり、チョロチョロと火を吐き出した被弾機が気になり、追撃を止めて陸攻に近づいた。見ていると、被弾機は「バアッ」と大黒煙を吐き、火は消えた。消火器のガスが利いたようだった。片エンジンでも飛べる、ほっと安心する暇もなく、ガス煙の消えた後からまたチョロチョロと赤い炎が見えた。私は右胴体に寄り添ってみるが、手の出しようがない。炎はだんだん大きくなる。消火器のガスは一度しか使えないらしい。搭乗員が四、五人窓ガラスに顔をつけるようにして手を振る。不思議と平静な様子だった。
私は機番号をしっかりとメモ帳に記入して置いたのだが、今となっては思い出すことができない。陸攻は急に大きく右旋回をすると、機首は百八十度変針、ガダルカナルに向けられた。高度は下がる火勢は強くなる。とてもガ島までは戻れまい。しかし、この場に及んで機首を敵地に向けた搭乗員たちの気持を思うと、しばらく後を追いながら涙が出て我慢できなかった。
やがて、火勢が右翼を覆うようになると、今はこれまで、と思ったか、機首を下げ、海面目がけて真っすぐに自爆の態勢に入っていった。七人の搭乗員を乗せたまま……。
『修羅の翼』
ラバウルに進出した一式陸攻

受け持ちの搭乗員が上空に行くと不調になるというエンジン、

もし間違っても胴体にもぐり込んでいる整備分隊士には脱出の機会はない。まさかそれを知って自分だけ落下傘降下することはできない。たぶん大丈夫とは思ったが万一の時は、男同士一緒に死んでも悔いはない、と思った。
しかし、試飛行には念を入れ随分急激な運動をしてみたが好調だった。さすが七十キロ以上の巨体の和田分隊士も降りた時はしばらく口も利けない様子だったが、「大丈夫です。搭乗員の気のせいでしょう。どこも悪いところは無いですよ」と言うと、「そうかッ」と嬉しそうだった。このような本当に生命がけの整備員に支えられてこそ、私たち戦闘機隊は安心してどこまでも飛べるのだ。
同じ一分隊士なので特に印象に深いものがあった。
『修羅の翼』

2016年10月30日日曜日

中垣(政介飛曹長)が出発に際して行なった小隊長訓示は、「われわれは昨日(ラバウルに)

着いたばかりでまったく地理不案内の上、初めての洋上で迎えの飛行艇と会合することは極めて困難が予想される。幸い合流できても脚の出たままの九九艦爆は着水の時に転覆の恐れが多い。なまじ不時着して行方不明となるよりは敵艦に体当たりを決行しよう。列機もいっさい帰ることは考えるな、俺の後に続け」
と叱咤し、(ツラギ沖敵船団への片道攻撃の)進撃針路だけ分かればよい、と航法計算盤を投げ出して飛び立って行ったという。
『修羅の翼』

「直掩隊は爆装隊の盾となって、

全弾身に受けて爆装隊を進めよ」
『修羅の翼』

2016年10月22日土曜日

マリアナ沖の米機動部隊を攻撃すべく突入、

火だるまとなって撃墜される基地航空隊の銀河。
『激闘の空母機動部隊』


私たちは涙をのんで最後の天山を海に捨てた。

南海のうねりは、すぐに天山の機体をのみこんでしまった。搭乗員は無言でそれをながめていた。しかし、彼らの頬には一すじの涙がひかっていたのである。
『激闘の空母機動部隊』


2016年10月9日日曜日

一式陸上攻撃機

設計主務の本庄季郎技師は、諸要求を満足させ、兵器としての耐弾性を付与するには、四発機にするほかにないと考えたが、航空廠(十四年に航空技術廠に改編)側から「用兵に口を出すな」と一蹴されてしまった。軍が提示する要求性能を会社が実現してみせるのは当然、との増長が、この時期の発注側に特に顕著だったのは否めない。そのムードを生んだ主役が、同じ三菱の九六艦戦と九六陸攻だったのは皮肉である。
『太平洋戦争 日本の海軍機』


日露戦争によって獲得した満蒙権益は、

その後欧米諸国の圧迫干渉をうけ、ことに一九二〇年の新四国借款団(原内閣期)以来、権益の削弱を余儀なくされた。さらに、ワシントン会議、ロンドン軍縮会議などの圧迫によって、国防力は相対的に低下した。そのことが、「支那をしていよいよ増長せしめ、その革命外交の進展にともない、排日侮日の行為を逞うせしむる」要因をなし、「支那に乗ぜしむるの隙」を与えることとなった。したがって満州国承認後も、「これに対する支那の反抗は今後直接間接いよいよ熾烈となるであろう」。永田(鉄山)はそう考えていた。
『昭和陸軍全史』

2016年9月25日日曜日

海軍の人々のなかでも、とくに搭乗員は、

軍人としての上下の階級よりも、上に立つ人間の技量、識見、上官としていかに部下から信頼をうけることができるかどうかの人間関係の良し悪しが、組織を維持してゆく面に強くはたらく。
『雷撃のつばさ』

2016年9月24日土曜日

「本当に数多くの優秀な人を死なせてしまった。

申し訳ないと思っている。それを思うと、周囲の情勢がガラリと変わったからといって、自己の主義主張を変えて平気な連中の多いことを、わしは心から残念に思うのだが……」(小沢治三郎氏)
『完本・列伝 太平洋戦争』


飛行甲板の前方、三分の一ぐらいは吹きとんで

大きな口をあけ、艦橋のまえには吹きとんだ昇降機が屏風のように突き立っていた。(元空母「飛龍」砲術士・右舷高角砲指揮官・海軍少尉 長友安邦氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年9月23日金曜日

「燃料アト五分母艦ノ位置知ラセ、探照灯ヲ点ゼラレタシ」

「探照灯点ジアリ」
という電文が、交互に乱打されていた。
闇に機位をみうしなった「隼鷹」の未帰還機が必死になって母艦に呼びかけをおこない、「隼鷹」がそれに応えているのであった。
なお「摩耶」の暗号室である。
闇に巨体を伏せた母艦が打つ「探照灯点ジアリ」という電文が聞こえている。
が、その後も、しばらく未帰還機は、
「探照灯見エズ」
をおくりつづけた。
母艦は、明かりをつけていなかった。原則として、敵潜水艦が潜伏していると予想される海上で明かりをともすことはきびしく禁じられていた。たぶん、未帰還機の搭乗員も、そのことを知っているだろう。承知していながら、なおも助けを求めているのである。明かりが見えない、という悲痛な電文をなんどとなく打ちつづけたのち、間をおいて「万歳」という訣別の送信をおくってきた。未帰還機からの送信がぷっつりと跡切れると、電信室に重苦しい空気が流れた。
この日、二隻の空母のうち、「隼鷹」は艦爆未帰還機四、「龍驤」は零戦一をだした。
『ミッドウェー戦記』

飛行機を上げるエレベーターを、

あんなところにまで吹き飛ばす力というのはどうしたものだろう。
『ミッドウェー戦記』

2016年9月22日木曜日

「なにか戴く物はございませんか」

と、伊藤(清六中佐、首席参謀)がいうと山口(多聞、司令官)は、
「これでも家族に届けてもらうか」
と、頭に手をやり、かぶっていた黒の戦闘帽を脱いだ。
『ミッドウェー戦記』

2016年9月18日日曜日

航空本部教育部長の職にあった大西瀧治郎大佐は

自ら前線に赴いて九六陸攻に乗り込み、僚機が撃墜される様子をその目で見た人物だった。被弾して火災を生じ、胴体内にある中央燃料タンクに火が回り、襲い掛かる炎によって搭乗員が操縦席の風防の際まで追い詰められて焼かれて行く有り様を肌身で知っている大西大佐は新しい陸攻の燃料タンク周囲の防御装備の充実を強く求めた。
『海軍の主力爆撃機"G4M"の栄光と挫折  丸844』

2016年9月17日土曜日

最初の命中弾は、前部の昇降機にまともに当たった。

この一弾は、昇降機そのものをひきちぎって空中高くほうり上げた。そして、昇降機はそのまま空中を滑走して、艦橋の前面に激突した。
このため艦橋の前面ガラスがこなみじんに割れ、その破片が、司令官山口多聞少将や艦長の加来止男大佐ら首脳部の頭上にふりそそいだ。
昇降機はそのまま艦橋の前面にはりついたようになったために、前方が見えず、加来艦長はすぐには艦を操作することができなかった。(「への字に折れまがって、まるで艦橋がふたつあるみたいだった」–– 堤信氏談)
『ミッドウェー戦記』

加速度のついた急降下爆撃機をとらえるのは

容易なことではなかった。
数機を撃墜したが、大部分はのがした。「飛龍」に直接おそいかかったのは十三機であったといわれている。「飛龍」の操艦はみごとなものであった。絶叫する見張員の声に、そくざに回避運動にうつり、七発目までを躱している。が、さすがにそこまでで、あとは力がつきた。
『ミッドウェー戦記』

とにかく、艦長の加来止男(大佐)が、整列した搭乗員の肩に手をかけて、

「だいじょうぶか」
ときくと、
「だいじょうぶであります
と答えはするのだが、上半身は本人の意志に反してぐらぐらと揺れている。そういったあんばいであったらしい。
尋常の疲れ方ではない。
『ミッドウェー戦記』

第一次攻撃隊の被害が大きかったのと、

第二次の生還機の場合は、よくこれで帰ってこられたものだとおもわれるくらい損傷がひどく、修理しても使用できない機のほうが多かった。
『ミッドウェー戦記』

「友永丈市隊長機の最期を見た唯一の目撃者は私なんです。

米空母の艦橋付近に突っ込んでゆくのを見ました。もう飛行機の半分は炎につつまれていましたが、後部ははっきりと見えた。指揮官機であることは尾翼のマークではっきりとわかりましたね」(浜田義一氏、当時「飛龍」艦攻電信員、一飛曹)
『ミッドウェー戦記』

飛龍攻撃機隊 友永丈市大尉機 1942年6月

2016年8月21日日曜日

「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ、

おれもあとからゆく」
と部下をはげましたとき、かれはすでに自分の死を覚悟していたのだろう。
『ミッドウェー戦記』


「飛龍一隻でなんとか敵空母を全滅させねばならない

という責任感が、つよく肩にのしかかってきた。発艦時の心境は、なんとしてでも敵空母をやらねばならない、やる責任がある、というだけで生死のことなどなにも頭に浮かばなかった。母艦を飛び立ってからも、恐怖は感じなかった」(元飛龍第二次攻撃隊第二中隊長、橋本敏男大尉)
『ミッドウェー戦記』

(第十戦隊旗艦「長良」の)甲板によじのぼった南雲中将は、

(第十戦隊司令官の)木村少将の顔をみるなり、
「木村。この長良で赤城をひっぱれんかね」
と言った。
『ミッドウェー戦記』

「二隻の駆逐艦は、じつによくやってくれました。

燃えあがる巨艦(「加賀」)にすれすれに近寄ってきてくれてですねえ、あれは危険だったでしょう。艦長の名前は失念したが。(筆者注、前述のように、「萩風」は岩上次一氏、「舞風」は中杉清治氏)(同、天谷孝久氏)
『ミッドウェー戦記』

当時の飛行機搭乗員というのは

ミヤモトムサシ(筆者注、宮本武蔵、技神に入っていたというほどの意味であろう)だったですからねえ。こっちが黙っとったら、自分から退艦するようなことはしませんから、当時の軍人は。私は、勝手に飛び込めと怒鳴ってあるいた。当時の飛行機搭乗員というのは、むかしのお百姓さんが米をつくるように、長い歳月をかけて身体でじっくりと覚えた技術というもんがありましたからねえ。(元「加賀」飛行長、天谷孝久中佐)
『ミッドウェー戦記』

2016年8月20日土曜日

それにしても、このあたりの、いわゆる零戦の性能と

乗員のはたらきぶりは、ただみごとというしかなかった。(「撃墜した米機二十機ぐらいまではかぞえていたが、あとはめんどうくさくなってやめた」――当時「蒼龍」戦闘機搭乗員藤田怡与蔵氏談)
『ミッドウェー戦記』

「敵数十機、右三十度、低空、

こちらに向かってくる」
第二波の来襲である。
これは「エンタープライズ」から出撃してきた雷撃機隊であった。
『ミッドウェー戦記』

第一波の敵艦載機が姿をあらわしたのは、

(第一次)攻撃隊の最後の一機を収容するのとほとんど同時刻であった(攻撃隊の収容に要した時間はほぼ四十分)。午前九時十八分のことである。
最初に発見したのは重巡「筑摩」だった。右前方の水平線上から、十八機の編隊が姿をあらわした。雷撃機であった(ホーネット 第八雷撃中隊)。
『ミッドウェー戦記』

「敵兵力は巡洋艦、駆逐艦各五隻」(利根四号機)

という意味のものであった。
そして、さらに十分後、
「敵は空母らしきもの一隻を伴う」という重大な電文を打ってきた。
『ミッドウェー戦記』

「敵ラシキモノ一〇隻見ユ、

”ミッドウェー”ヨリノ方位一〇度、距離二四〇浬、針路一五〇度、速力二〇節以上」(利根四号機)
『ミッドウェー戦記』

「私はあのとき、ミッドウェー基地の航空部隊が

日本軍機動部隊と死闘を演じているさまに思いをめぐらせていた。そして、私の頭のなかで、味方の飛行機は完膚なきまでにたたきのめされていた。そう、私はあのとき、味方の被害を冷酷に計算していたのである。私は人非人になっていた」(第十六機動部隊参謀長、マインズ・ブローニング大佐)
かれは、ミッドウェー基地の友軍機が、その数とパイロットの技術の面からみて、敵空母部隊と四つに組んではとうてい勝ち目がないことをしっていた。かれはそれを十分計算にいれたうえで、敵が味方機を撃破した直後の心の隙を衝こうとくわだてたのである。
『ミッドウェー戦記』

2016年8月18日木曜日

いまとなっては、たしかめるすべもないが、

『戦藻録』によれば、あるとき宇垣纏聯合艦隊参謀長が、人気のないのをさいわいに、山口多聞一航戦司令官にたいし、
「赤城の一航艦司令部では、いったいだれが実権をにぎっているのか」
と質問すると、山口少将はややあってから、
「南雲長官はなにもいわぬ。参謀長も似たようなものだ」
と答えたという。
『ミッドウェー戦記』

2016年8月16日火曜日

索敵機の目標誤認(五月七日)

「敵航空部隊は空母一、巡洋艦一を基幹とし駆逐艦三隻をともなう。針路三〇度、速力一六ノット」
『太平洋海戦』

2016年8月14日日曜日

「巨大な軍艦が沈むようすというのは、

ちょっと実際に見た者でなければわからんでしょうな。凄絶といおうか凄惨というべきか、ちょっと形容の仕様がない。『加賀』はね、平衡を保ちながら、徐々に沈んでいった。『赤城』は、艦尾から巨きな神の手かなにかに、一気にひきずり込まれるようにして沈んでいった」(元駆逐艦「舞風」艦長 中杉清治氏談話)
『証言・ミッドウェー海戦』

赤城


加賀

「つぎつぎ斃れだした」

との悲報がくる。ああ持ち場を死守して、ついに最悪の状態にたちいたったか。
「なんとかして機械室から上がれないか」
いまとなっては、それもかなわぬだろう。
「何かいい残すことはないか」
と思わず断腸の思いで連絡させた。
「なにもない」
とすぐ返事がもたらされた。
従容として、持ち場を死守するものの声である。(元第二航空戦隊参謀・海軍中佐 久馬武夫氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年8月13日土曜日

血みどろ空母「飛龍」の怒号を聞け

機関参謀は艦橋の伝声管について、ずっと連絡していたが、しだいに室の温度が高くなったのと、また室は閉鎖してあったので、「機関室からの脱出は困難」という連絡をつげてきたが、その一言を最後に声もと絶え、機関室の全員は戦死した。
そして主機械もとまり、消防ポンプも放水できなくなり、電灯も消えてしまった。まことに悲壮というほかはなかった。(元空母「飛龍」航海長・海軍少佐 長益氏)
『証言・ミッドウェー海戦』


とくに同(ミッドウェー)海戦で、正しかった意見具申が用いられず、

また駆逐艦による生還の道がありながら、艦長とともに、あえて艦と運命をともにされた山口司令官がしのばれてならない。
敵を攻撃すべき雷爆装機が、かえって自艦に致命的打撃をあたえる結果となり、搭乗員の高練度の技量もほとんど発揮されないまま敗退したことを、どんなに悔やまれたことであろうか……。(同、福岡政治氏)
『証言・ミッドウェー海戦』



ややあって、駆逐艦の航跡が急に白く

波立ちはじめた。「飛龍」にむけて増速し、そして急に変針した。
「さては自沈のための魚雷発射では?」
私はまばたきもせず、じっと見守っていると、「飛龍」の舷側に巨大な水柱があがった。
その水柱は、テレビなどで見るスローモーション画面のように、おもむろに高く高く上昇して、いったん停止し、そして静かに消えていった。
昨夜来の乗員の苦闘にもかかわらず、「飛龍」はついに刀折れ矢つき、自沈のやむなきにいたったものと思われる。生存者を駆逐艦に移し終わってからの魚雷発射だったのである。(元重巡「筑摩」掌飛行長・海軍大尉 福岡政治氏)
『証言・ミッドウェー海戦』


2016年8月11日木曜日

(昭和十七年)当時、「飛龍」の搭乗員は

一部が移動されたが、分隊長以下の大部分は、真珠湾奇襲において赫々たる戦果をおさめ、ついでウェーキ島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦においても輝かしい武勲をたてた、日本海軍の最優秀の猛者ばかりであった。(元空母「飛龍」飛行長・海軍少佐 川口益氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年8月8日月曜日

被弾したまま隊長機は発艦

(第三次攻撃隊)一〇機のなかには、第一次攻撃で右燃料タンクをやられた(友永)隊長機もふくまれていたので、私は隊長に飛行機をかえて出発されるように意見を具申したが、隊長は、
「敵は近い。左タンクだけでも十分だ。それにこのさい一機といえども機数を減らすのはもったいない」
と、私の意見をしりぞけて勇躍発艦した。(同、橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

「オレも日支事変いらい何回も死中に活を

もとめ得たが、こんどばかりは年貢のおさめどきかと観念した。俺は死にそこないだからよいとしても、若い前途ある貴様は殺したくないと思ったよ」
といわれたときには感激して、この隊長の下で死んでも悔いはないと覚悟をあらたにしたのである。(同、橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

友永(丈市)隊長は、

「飛行士!やられたタンクは、右か左か?」
とどなった。
被弾部は翼のつけ根付近で、左右どちらか判定にしばらく時間がかかったが、どうやら右タンクとわかった。
すると隊長は、燃料コックを切り換えて被弾した右タンクがカラになるまで右タンクの燃料を使い、右タンクがカラになってはじめて左タンクに切り換えた。
このわずかの間にも、彼我の激烈な空戦がつづいたが、零戦の奮戦によって敵グラマンはつぎつぎと撃墜され、約十五分後には空中に敵機を一機も認めなくなった。
彼我空戦の死闘の間にあって、適切な回避運動や燃料コックの切り換えを実施した隊長に対し私は、先輩にはとてもおよぶところではない、と感心するとともに教えられもしたのである。(元空母「飛龍」艦攻隊第二小隊長・海軍大尉 橋本敏男氏)
『証言・ミッドウェー海戦』

2016年7月15日金曜日

真珠湾へ

宇佐    五航戦艦攻
大分    同右    艦爆
大村    同右    艦戦

「瑞鶴」の飛行機隊は宇佐、大分、大村を基地として、月月火水木金金の猛訓練に入った。
『空母「瑞鶴」の生涯』

2016年6月5日日曜日

「赤城」でも集合煙突を右舷舷側から海面に向かって

突き出さす方法が採用された。結果的には成功であった。しかも高熱の排煙ガスが艦尾付近での気流を乱さないために、着艦作業が進められている時には、煙突の先端で多数のダクトから海水を霧状に噴霧し、排煙ガスの温度を低下させ気流の流れを安定させる方式が採られたのであった。この方式は成功し、以後建造された多くの日本の航空母艦の特異な構造の煙突を出現させたのであった。
『航空母艦「赤城」「加賀」』

2016年5月5日木曜日

瑞鶴の建造は昭和13年5月25日、神戸の川崎重工で始まり、

昭和16年9月25日に竣工した。

㊂計画の中心は、戦艦大和、武蔵と空母瑞鶴、翔鶴の建造である。


2016年5月2日月曜日

ダンケルクの内部に残るしかなかった負傷兵は、

それよりはるかに過酷な状況に見舞われ、看護兵や軍医は、かれらを励ますこと以外、ほとんどなにもできなかった。
『第二次世界大戦 1939-45』

2016年4月29日金曜日

日支事変以来、ラバウル、ソロモン、ニューギニア、

硫黄島、台湾沖、そしてフィリピンと、修羅場をくぐってきた角田(和男)さんは、ベテランなるが故に特攻隊の直援(ママ)や戦果確認の任務が多く、仲間や部下の体当たりを見届ける辛い非情な役目を耐え抜き、終戦まで生き延びた。生き残ることは、彼にとって重い負担であったに違いない。(元第一航空艦隊副官、門司親徳氏)
『修羅の翼』


2016年2月28日日曜日

ジューコフ将軍は早速、

敵に投降した兵士の”家族”にかんするスターリンの指示をさらに厳格化することを決め、現場の各指揮官にこう申し渡した。「すべての兵士に周知徹底させよ。敵に降伏したら、諸君の家族はひとり残らず銃殺にかけるし、諸君自身も、収容所から戻ったあとは、即刻銃殺刑だ」と。
『第二次世界大戦 1939-45』

ゲオルギー・ジューコフ

なるほどソ連軍は、背後に督戦専門の政治士官や将校がいて、

兵の背中に銃口を突きつけ、突撃を強制することがままあったけれど、ソ連兵はそれでも、そうした土壇場に置かれると、必死に勇気をふりしぼり、戦いを継続するのだった。
『第二次世界大戦 1939-45』

2016年2月11日木曜日

南方軍集団司令官ルンテシュテットは、

ロストフからの撤退を意見具申した。
しかし、ヒトラーはこれを拒み「死守」を命令した。その後、乱発されることになる「死守」命令の始めのひとつである。しかし、プロイセン以来の正統な野戦軍司令官であるルンテシュテット元帥は、軍事的に無意味な命令に従うつもりはなかった。
(一九四一年)十一月二九日、ルンテシュテットは死守命令を無視して、部隊に撤退命令を下した。激怒したヒトラーはルンテシュテットを軍集団司令官から罷免した。
『西方電撃戦』

2016年2月8日月曜日

部隊の練度も最低だった。

一九三〇年代後半に荒れくるったスターリンによる大粛清によって、能力ある指揮官が失われたため、兵士は戦い方を知らないのだ。
『西方電撃戦』

2016年2月6日土曜日

かつて赤軍を席巻した「大粛清」のせいで、

大規模部隊を動かした経験を全く持たない将校が、いまや師団長や軍団長をつとめており、しかも密告や告発、「NKVD(ソ連内務人民委員部)」による逮捕を恐れるあまり、状況にしたがって臨機応変に判断をくだす気風までが廃れていた。
『第二次世界大戦 1939-45』