ページ

2017年12月28日木曜日

町は火の海と化し、私は山の中の洞窟に潜んだ。

五月に生まれたばかりの子どもは泣きやまない。そこへ兵士が来て言った。「子どもの泣き声がアメリカ兵に聞こえたらどうする。今度泣いたら刺し殺すぞ」(サイパン島での沖縄出身の民間人女性の手記)
『最後の言葉』

日本艦隊の連射は一層激しさを加え、

戦艦「オスラビア」についで、遂にロジェストヴェンスキー司令長官坐乗の旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」にも火災が発生した。しかも、同艦の舵機の汽罐に砲弾が命中、航行の自由を失って速度もおとろえ、艦列外に出ざるを得なかった。
旗艦の落伍によって戦艦「アレクサンドル三世」が先頭艦となったが、同艦にも砲弾が集中、マストは吹き飛び煙突は倒壊して、火炎が噴き上った。
『海の史劇』

T字戦法をとった日本艦隊に、ロシア艦隊は進路前方をさえぎられた形になり、

ロジェストヴェンスキー司令長官は右舷方向への変針を命じた。
それを認めた東郷司令長官は、旗艦「三笠」以下に変針を命じ、ロシア艦隊の進路前方にのしかかるように航進させた。その間、両艦隊の砲撃は絶え間なくつづけられ、殊に、先頭をゆく艦には砲撃が集中した。
『海の史劇』

幕僚たちは、東郷(平八郎)を不安そうに凝視していたが、

突然、東郷の右手が高くあげられるのを見た。
幕僚たちは、息をのんで東郷の命令を待った。そして、東郷の右手をみつめたが、その手が勢い良く左へ振り下ろされた。幕僚たちは、すぐにその意味をさとり、唖然とした。東郷は、左舷方向に回頭して敵艦隊に突進しようというのだ。
加藤(友三郎)参謀長が、「三笠」艦長意地知大佐に、
「艦長、取舵一杯だ」
と、言った。
『海の史劇』

「信濃丸」の電信兵は、

「敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ」
と、暗号電文のキーをたたいた。……時刻は、午前四時四十五分であった。
『海の史劇』



2017年12月22日金曜日

日本側に甘さ

(モンゴル東部の)大平原に残る巨大基地(サンベース、マタット、及びタムスク)と軍用鉄道の跡を見ると、中立条約を結び、対独戦の最中にあってすら日本を敵視して隙を見せなかったソ連の国家的な意志を改めて感じた。日本の首脳陣は、当初は演習の名目で対ソ攻略を企てながら、敗色が濃くなると和平仲介を求めようとした。スターリンの決意の強さと、日本側の見通しの甘さとの隔たりに愕然とする。(「ソ連が満州に侵攻した夏」の著書がある作家半藤一利氏)

「『お国のために』という言葉のもとに、

まともに物を考えることを封じられている時代だったからね」(故水木しげるさん)

2017年12月18日月曜日

特攻隊として出撃の日が近かったのだろう。

母子は玄関や座敷で火鉢を囲んだ。母親たちは故郷から持ってきたスルメや空豆を「今度の休みに息子に食べさせて」と母に託していた。
(45年)3月に入って少年兵3人が「明日発ちます」とあいさつに来た。母は「お国のためにがんばってください」と見送ったが、「もうあの人たちは亡くならはるんやで」と私にささやき、彼らの後ろ姿をいつまでも見守っていた。(玉木隆子さん)
――『声  語りつぐ戦争』より

昭和十年代の軍事指導者らは

自分に都合の悪いことが生じたとき、箝口令(かんこうれい)と戦死の二大命令を兵士たちに強要するのが特徴であった。(保阪正康氏)
――『ナショナリズムの昭和』より

2017年12月17日日曜日

「(まず雷撃隊は全滅するだろうな。

おそらくいちばん先に靖国神社へ行くことになるだろう)そんなことを考えながら隊員たちの顔を見わたすと、気のせいかだれもが真剣そのものの表情をしている」(蒼龍雷撃隊員森拾三二飛曹の手記)
『真珠湾攻撃作戦』

2017年12月14日木曜日

「稚内公園」からは海を一望できる。

「南極観測樺太犬訓練記念碑」や「樺太犬供養塔」のほか、市のシンボルといえる「氷雪の門」がある。かつて多くの日本人が暮らしていた樺太への望郷の念と、戦中・戦後に現地で亡くなった人たちの慰霊のために建てられた。近くには、1945年8月に真岡(現ホルムスク)の郵便局で集団自決した女性電話交換手を悼む慰霊碑「九人の乙女の碑」もある。
――『映画の旅人』より

氷雪の門

九人の乙女の碑

2017年12月12日火曜日

歴史を学ぶということは、

ただ、過去のできごとを知るということではありません。歴史からひきだされるさまざまな教訓は、現代での生き方を教え、あわせて、未来への示唆を与えてくれるものです。
『物語日本史』


2017年12月10日日曜日

武蔵は魚雷と爆撃の猛攻に沈んだ。

山城は巨大な火柱を夜空に噴き上げて消えたという。4日間で7千人とも1万人とも言われる将兵が命を落とした。作家の半藤一利氏は「大日本帝国の最終章を飾る雄大な葬送賦」と評した(『レイテ沖海戦』)
――『天声人語』2017年(平成29年)12月10日より

2017年11月26日日曜日

不信の国、日ソ中立条約を一方的に破棄。

ヤルタ会談(1945年2月8日の極東密約)にて秘密裏に対日宣戦が約束されていた。

ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めた。

1945年5月8日、ドイツが無条件降伏。

ソ連は8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。
この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。

満州で全滅した開拓団は10を数え、死亡者は約7万2千人に及んだ。

不信の国!



駆逐艦「雪風」乗り組みの方のお話しを

聞けるとは思っていなかった!それも、魚雷発射管の配置の方である。
西崎信夫さん(90歳)

戦艦「大和」の沖縄水上特攻時、「雪風」は「大和」の左後方1,500メートルで護衛したとおっしゃっていた。敵機は艦隊の左後方から「大和」に攻撃を集中したので「雪風」は助かったのでは、と言われていた。
『雪風ハ沈マズ』では、「雪風」は「大和」の百二十度(右やや後方)千五百メートル、となっているので要研究である。

千mも立ちのぼった火片と煙。真っ二つに折れて沈む戦艦大和の最期が、瞼に焼きついてはなれない。(西崎さん)




戦場体験者と出会える茶話会@浅草公会堂

語らずに死ねるか!

余りにも重い言葉であります。
私が本日(2017/11/26)お話しを伺ったのは、
坂上多計二(たけじ)さん 92歳
陸軍 実際には入隊前に軍属として働いていた第103海軍軍需部に農場指導員として配属
フィリピン・ミンダナオ島で飢餓を体験


台湾でお育ちになり、台湾・高雄より「日本海丸」でフィリピンのマニラ経由、ミンダナオ島ダバオへ。1944年4月に徴兵検査に合格し、陸軍独立歩兵第165大隊へ現地入隊。1945年5月に米軍がダバオ周辺に上陸、連日の砲爆撃で死傷者続出し営農が出来なくなり、小隊長として隊員30名を指揮してジャングル地帯へ逃げ込み自活生活に入る。

大木に寄りかかり遠目に微笑んでいる日本兵がいて近付いてみると、もう死亡していて、目元口元に蠅が産卵し、人はもう死亡していて蠅が目元と口元にウジを産み付けうごめいているのが、薄目を開け白い歯を見せて笑っているように見えるのだった。

双胴の敵機を見たとおっしゃっていたのは、ロッキードP-38であろう。

米軍のビラを拾い、鈴木貫太郎総理がポツダム宣言を受諾したと敗戦を知ったが、本気になれなかった。9月29日に山から出て降伏。悔しくて戦後、靖国神社には戦友の目をごまかしてまで入らなかったとおっしゃっていた。

何度もお話し中に、ハンカチで目頭を押さえられていた。




「ごめんね、わたしもすぐいくから」

「『ごめんね、わたしもすぐいくから』。そう言って母は3歳だった妹ののどに日本刀をあてがいました」。(72年前、9歳だった時の出来事を語る大島満吉さん(81))
(……)
大島さんは旧満州(中国東北部)の興安南省で家族と暮らしていた。1945年8月9日にソ連が参戦。1千人以上の住民らとともに、一家は安全な場所を目指し、葛根廟(かっこんびょう)へと逃げた。8月14日。目的地の目前でソ連軍に遭遇。ガタガタと音をたて戦車が住民をひき殺し、銃撃戦が続いた。逃げられないと覚悟した母は、近くの在郷軍人の日本刀を借り妹を手にかけた。その直後、はぐれて死んだと思っていた父や兄と再会、終戦翌年の10月に帰国した。
――浅草公会堂(2017年11月24~26日)での「戦場体験者と出会える茶話会」でのお話しより

2017年11月18日土曜日

森(光子)より三つ年下の

(茶道裏千家14代家元夫人の千嘉代子の長男で15代家元の)玄室(げんしつ、94)は特攻隊員だった。出撃命令の出る前に内地で敗戦を迎えた。「特攻の生き残り」として忸怩たる思いを抱えていた玄室に、森は「生きてらっしゃるから、お家を継げるのよ」と声をかけた。
――『都ものがたり 京都』より

27歳のとき、ルポライターになろうと長野県軽井沢町の

大日向地区で取材。旧満州の開拓団の引き揚げ者から体験を聞き取り、「満州・浅間開拓の記」にまとめた。だが、ソ連兵に乱暴された女性らが涙ながらに語る人生は「重く、背負いきれなかった」。(経済ジャーナリスト 萩原博子さん)

2017年11月17日金曜日

繰り返す沖縄の悲しみ

元米海兵隊員で元米軍属のシンザト被告(33)の裁判員裁判が、那覇地裁で始まった。
(中略)
事件を知ったとき、那覇市の宮城須美子さん(78)は70年前の出来事が脳裏に浮かんだ。沖縄戦の直後、米軍が名護市辺野古に造った民間人収容所にいたときのことだ。背が高くて目がぱっちりした15歳のお姉さんがいた。ある日、米兵に家族の前で連れ去られ、夜中、ぼろぼろの服に裸足でぼうぜんと帰ってきた。「娘が」と泣き叫ぶ母親の声が耳に残っている。

2017年11月16日木曜日

人間は決してあのように死んではならない

人間は決してあのように死んではならない
                                               石原吉郎

下半身は俯(うつむ)けになっているのに上半身は仰向いている。シベリアの強制収容所で、事故で命を失い、営倉に投げ込まれてねじ切れた捕虜仲間の姿に、詩人は、死した後も人がまるで物のように屍体(したい)の一つとして処理される、という形でもう一度殺されるのを見る。そして、大量に殺戮されることよりも「ひとりひとりの死がない」ことに戦慄する。評論集『日常への強制』から。

――『折々のことば』より

2017年11月12日日曜日

「泣き虫科学者」

戦後のホワイトハウス。
「自分の手が血に染まっている気分です」(「原爆の父」オッペンハイマー)
ハンカチを取り出して、「拭いたらどうかね」(トルーマン大統領)

ともあれトルーマンはオッペンハイマーの「良心」が気にくわなかったらしい。のちに国務省の高官にあてた書簡で「泣き虫科学者」とこきおろした。
――『日曜に想う』より

人非人!
ハリー・S・トルーマン

「沈めてよいか第五福竜丸」

「パールハーバーを忘れるな、とおっしゃったみたいですけど、私たちは第五福竜丸のことも忘れないでいきましょうという気持ち」(俳優 吉永小百合さん)



第五福竜丸(当時は水産大の「はやぶさ丸」)は 1967 年に廃船処分となり、解体業者に払い下げられ、船体はゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されました。これを知った市民のあいだから保存のうごきがおこり、「沈めてよいか第五福竜丸」の投書(朝日新聞 68 年 3 月 10 日)や原水爆禁止運動など全国で取り組みがすすめられました。
1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、船は展示・公開されました。

2017年10月22日日曜日

日本よ、美しく年をとれ

「(……)
長年人間をやってきたが、世間による同調意識の強要にはホトホトくたびれた。ガツガツした拝金思想が、日本でも勢いを増しつつあるのを憂慮する。残り少ない人生において私が願うのは、『日本よ、美しく年をとれ』ということである」(千葉県・80代男性)
――『声  わたしの未来  2017衆院選』より

1926(大正15)年生まれの詩人 故茨木のり子さん代表作

わたしが一番きれいだったとき
……男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆発っていった

東京に冷たい雨の降ったきのうは、74年前(昭和18年10月21日)に、当時のニュース映像でよく知られる雨中の学徒出陣壮行会が行われた日だった。
――『日曜に想う』より

2017年10月20日金曜日

(陸軍航空トップ)菅原(道大)(みちおお)中将のただならぬ厳粛な態度に、

(明野飛行場の)格納庫の中には息詰まるような空気が充満していました。そして菅原中将は驚くべき言葉を続けたのです。
「ただし、特殊任務を遂行する以上、絶対に生還はできない」
あたりは静まりかえり、物音ひとつしませんでした。そんな緊張感のなかで全員に一枚の紙が配られたのです。週刊誌ぐらいの大きさの紙で、右端には特殊任務と大きく書かれ、紙の中央部分に文字が三列にわたって並んでいました。
「熱望する
   希望する
   希望せず」
菅原中将の退席後、同行していた副官が言葉を継ぎます。
「この紙に官姓名を署名し、いずれかに丸をして、夕食までに提出せよ」
『特攻隊振武寮  証言  帰還兵は地獄を見た』

2017年10月18日水曜日

幽閉された軍神

「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者。死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」

大貫健一郎元陸軍少尉『特攻隊振武寮  証言  帰還兵は地獄を見た』
(ミュージシャンの大貫妙子さんは長女にあたる。)

2017年10月12日木曜日

鎮魂 作品に祈り込めて

1944年冬、陸軍兵としてニューギニア島西部に赴任。艦砲射撃の爆風で気を失い、顔に当たる雨で目を覚ました。40人の部隊で生き残ったのは2人。「戦場では弾が夕立のように降ってくる。当たらない方がおかしいんだよ」
「死んだ戦友たちは今、何を伝えたいだろう」。戦後は工芸作家として鎮魂の祈りを込めた作品制作を続ける。
戦争は小さいきっかけで始まると思う。「今のご時世、日本は憲法を改正して戦争に備えるべきだ。戦争賛成の人などいないが、撃ってくる相手に話し合いなんて通じないよ」(三橋國民さん(2015年取材当時94))

自尊 おれは自決しない

海軍兵として硫黄島へ。1945年3月1日、艦砲射撃を受け、砲弾の破片が全身に刺さった。
(……)
右手で自分の体をまさぐったが感覚がない。「おれはばらばらになったのか」。気づくと指が無かった。
日本軍の司令部壕に、米軍が火をつけた。燃えながら「助けてくれ」と叫ぶ日本兵を、味方が「黙れ」と撃ち殺した。「人間の皮をかぶった猛獣だよ」(秋草鶴次さん(2015年取材当時88))

責任 戦争を始める愚かさ

1944年12月から、フィリピンのルソン島で陸軍野砲兵第10連隊の砲手を務めた。激戦で2度負傷。顔にわいたウジを自分で皮ごとそぎ落とした。45年5月以降は極度の飢餓状態に。「馬は70円。死なせると不名誉だが、おまえらは赤紙と同じ1銭5厘だ」。上官には逆らえなかった。
「……戦争を起こす人は決して出征しない。死んだら神社にまつってやると言うだけだろう。愚かなことだ」(花岡四郎さん(2015年取材当時92))

反骨 死んだ人のために

1944年3月上旬、南太平洋のトラック島に海軍の主計中尉として赴任。
(……)
自分の死を覚悟した時、敵はトラック島を通り過ぎてサイパン島を攻撃。
(……)
「死んだ人のために、信念をもって生きる」。戦後に勤めた日銀は「封建的で身分に縛られた組織」。組合活動に参加し仕事を干された。「おれは妥協できなかった。好きな俳句を武器にして、社会への反骨を発散させたね」(俳人 金子兜太さん(2015年取材当時95))

2017年10月11日水曜日

へいたいさん、まんしうはさむいそうですね

昭和10年(1935)年、小学2年生だった作家の小沢信男氏は、戦地に送る慰問袋に入れるために学校で書かされた慰問文をこう書き出す。「お義理で書いている」ようで「勇ましくない」からか、採用されずに残った。
(後略)
――『折々のことば』より

時の最高指導者習近平が自らの都合に合わせ歴史観を定めているという実態

日本と中国が全面戦争に突入した起点は今から80年前、1937年7月の盧溝橋事件である。中国では45年までの8年を抗日戦の期間とする見方がこれまで定着していた。
ところが習近平政権は31年9月18日に起きた満州事変・柳条湖事件を抗日戦の起点と唱えるようになった。戦いの期間は6年延びて14年となる。(抗日戦争「8年」→「14年」)
(……)
その狙いは、自らが率いる共産党政権の正統性を強めることにあるようだ。
(……)
当時の日中関係を、14年戦争とだけ捉えると全体像を見落としがちだ。その間には関係改善を探り合った時期があり、全面衝突を避ける選択肢はあり得た。また当時の中国は内戦状態で、単純な日中対立の構図ではない。そもそも、共産党の抗日戦への貢献度は大きくない。
(……)
中国で問題なのは、ひとたび政権が見解を出せば、その歴史観に社会全体が縛られる点だ。すでに教科書の改訂が進み、異論を唱えた歴史学者の文章はネットから削除されている。
『2017年10月9日朝日新聞社説』

2017年10月8日日曜日

阿南陸相の秘書官であった林三郎元大佐は、

理性的に戦争を見てきた軍人らしく、いまはメッケル少将の研究に没頭している。白髪、七十二歳の学究は回想する。
《阿南大臣が自決された直後、東久邇(ひがしくに)内閣の陸相に決った下村定大将をお迎えに私は北京へ飛んだ。そのとき私は下村さんに「阿南さんの態度が最後まであいまいだったのは残念です。クーデターを計画して気負いたつ将校たちに対して、阿南さんが初めから計画をはっきり否定していたら、宮城事件のような不祥事は起らなかっただろう……と私には思われます」といったことを覚えている。(……)》
『一死、大罪を謝す』

2017年9月11日月曜日

隊長からの一通の手紙

「私(須見新一郎、元歩兵26連隊長)は司馬さんという人を信じて何でもお話したが、あなた(司馬遼太郎氏本人)は私を大いに失望させる人であった。したがって、今までお話したことは全部なかったことにしてくれ。私の話は全部聞かなかったことにしてくれ」という趣旨でした。
その理由は、「あなたは『文藝春秋』誌上で、瀬島龍三大本営元参謀と実に仲良く話している。瀬島さんのような、国を誤った最大の責任者の一人とそんなに仲良く話しておられるあなたには、もう信用はおけない。昭和史のさまざまなことをきちんと読めば、瀬島さんに代表されるような参謀本部の人が何をしたかは明瞭である。そういう人たちと、まるで親友のごとく話しているのは許せない」といったことでした。この手紙を読んで、あ、これでは司馬さんはノモンハンを書けないなと思いました。(半藤一利氏)
『昭和史 1926▶︎▶︎1945』

幻想・独善・泥縄的

「敵は、日本軍が出動すれば退却する」という、自軍にとってはまことに都合のいい、固定した先入観が日本軍の参謀にはあった。<それにのっとるかぎりはまことに間然するところのない作戦計画である。ただし敵情はまったく無視されている>。
だから主観的には勝つはずなのに、徹底的に痛めつけられることになった。司馬遼太郎さんも指摘したことだが、戦車一つとっても差がありすぎた。こちらの戦車は装甲が薄く、機関銃にも耐えられない。しかし名前が「戦車」である以上、それはりっぱな戦車なのだった。
『昭和史 1926▶︎▶︎1945』

2017年9月9日土曜日

昭和十二年、私が入隊する前年のことですが、

青年学校で、私は、関東軍の一大佐の講演をきいたことがありました。対ソ戦についての講演で、こまかなことは忘れてしまいましたが「たとえソ連に戦車が何百台あろうと何ら恐れることはない。向こうの戦車をこちらで鹵獲(ろかく)し、それを使って、逆に相手に向けて進めばよいのだ」といわれたことは、なぜかしっかりと頭の芯に刻まれていたのです。
(……)
戦車を分捕るどころではない、戦いがはじまって、まだ間もないというのに、中隊長も、第一第二小隊長も戦死してしまい、仲間がどれほど死傷しているか、見当もつかないのです。
『静かなノモンハン』

2017年9月7日木曜日

「あの馬は、もう死ぬな。この見通しのいい砂地に、

砲を曳いてくれば、標的になるだけじゃないか。日露戦争と同じだ。アンパン抱いて戦車退治するより手のない戦争ってあるのか?そう思わないか。――どうせ死ぬにしても、だれかと話したくなった」
『静かなノモンハン』

2017年9月6日水曜日

一九八九年、モスクワの戦史研究所を訪れたとき、

資料保管室の中に金網で囲まれた一角があり、外見からすると、どうやら日本兵から捕獲したと思われる手帳や日記帳が保存されているようであった。当時の状況から、私は、それらの捕獲物についてあえて尋ねることをしなかった。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

サイダー瓶による火炎瓶

(第七師団第二十八聯隊はハイラルから二百十六キロを行軍し、八月)二十一日に将軍廟へ着きました。
(……)
サイダー瓶にガソリンを詰め、点火芯には乾パンの袋や、兵器手入用の晒木綿や手拭を裂いて使い、これに点火して戦車に投げつけます。すると、エンジンの熱と暑熱とで灼け切っている戦車の鉄甲は、ガソリンを浴びてたちまち燃え出し、焔は天蓋の隙間から内部に吸い込まれて、内部をも焼きつくします。
(……)
明日はまちがいなく戦車と対決する運命にさらされます。
『静かなノモンハン』

2017年9月3日日曜日

「フイ」高地の悲劇

戦闘後、塹壕と掩蔽部から、六〇〇以上の日本軍将兵の屍体が引きずり出された(シーシキン他(田中克彦編訳『ノモンハンの戦い』)

ソ連側は、これでフイ高地は一人残さずかたづけたと信じていて、陣地に占領を示す赤旗を立てたし、日本側も全滅したものと考えた。
ところが壕の中には、まだ一二九人の兵が、水も糧食もないまま生きていた。井置支隊長は通信機も破壊され、連絡もとれず、(八月)二五日未明、ソ連軍が立ち去った後、自らの判断で、高地を脱出して本隊に到着した。その脱出がいかに成功裡に行われたかは、「一人のぎせい者も出さなかった」という事実に現れている。しかしこれは命令によらない無断撤退であると罪を問われ、停戦協定後の九月一六日、ピストルを渡されて自決を強要された。命令に反して撤退したという理由で、靖国神社にまつられることも許されなかった。それが許されたのは戦後になってからであると伝えられる。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

(昭和十四(一九三九)年六月二十七日のタムスク)越境空爆は、

この段階で国境衝突がすでに「事件」とは呼び得ない様相を帯びたことを明らかにしている。
『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』

天皇はかつてない怒りを顔に表して言った。

「自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごときものに勅使などもってのほかのことである。また、師団長が積極的に出られないと言っているのは、自分の責任が何であるか解せざるものだ。直ちに鎮定するよう厳達せよ」
『昭和天皇ご自身による「天皇論」』

2017年9月2日土曜日

瀬島(龍三)は歴史的証言をするにあたって、

関係者が存命中は表立った反論こそしないものの、その人物の死後になると前言を翻すような証言をする。その手法を知っているのであろう、旧軍人やかつての大本営参謀たちの中には、「自分の死後に、瀬島の発言によって、私の名誉が汚されることがあったら、保阪さん(著者)、徹底的に反論して欲しい。そのために史料を託したい(あるいは、証言を記録して欲しい)」と申し出る者さえあった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

戦争終結後、たとえば東條英機や杉山元など、

阿南(惟幾)よりもはるかに「責任観念」を明確にしなければならない指導者がいたが、杉山は敗戦からほぼ一ヵ月もたった九月十二日に拳銃で自殺。東條はその前日(十一日)、逮捕にやってきた米軍MPの前で拳銃自殺に失敗している。彼らの自決は戦犯として逮捕されることへの恐れからであり、何かに殉じたわけではない。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

(集めた中堅幕僚に対し)「陛下はこの阿南(惟幾)に対し、

お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上、反対を申し上げることはできなかった」
と伝えた。そして、
「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」
と、付け加えた。この言によって、ポツダム宣言受諾、すなわち敗戦を受け入れることが陸軍内部の大勢となった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

(昭和二十(一九四五)年)八月十四日午後、

鈴木貫太郎首相の下で最終的に終戦の決定が閣議決定された。阿南(惟幾)は静かに署名し、花押を認(したた)めた。しかし詔書案の文案にある「戦勢日に非なり」という字句を「戦局必ずしも好転せず」と訂正するよう主張している。これに対して海軍大臣の米内光政が強硬に反対して論争が起こったが、鈴木首相の判断で阿南の案が通った。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

陸軍大臣 阿南惟幾大将

こうした一家的な結びつきにもとづく同質な人間が集まった組織は

きわめて危険だ。太平洋戦争が始まる頃、陸軍省軍務課長の地位にあった佐藤賢了は東條(英機)のマグの一人だった。
「兵隊がガムをかんでいたり、上官に口答えしたりしているアメリカ陸軍は軍隊の体をなしていない。皇国精神にあふれているわが皇軍とは、その精神力で比較にならない」
こんな雑駁(ざつぱく)な佐藤のアメリカ観を鵜呑みにして、東條は戦争に踏み切ったのである。もう一人のマグで、東條の下で陸軍次官を務め、「東條の腰巾着」と言われた富永恭次は、部下に特攻を命じておきながら、自分はフィリピンから敵前逃亡している。
軍官僚は権力を私物化して、気に入らない人物は懲罰的に前線へ送りこみ、自分たちに連なる人脈は決して激戦地には送らなかった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

陸軍大学校の定員は約五十名である。

教官は佐官クラスの将校で、学生は二十代後半から三十代初めの尉官だ。密度の濃い人間関係だけに、自分の教官がその後昇進していけば、自分もそれに連なっていける。そのために教官へ接近していった学生もいた。一方で教官の方でも、自分の娘を将来性のある青年軍人に勧めるというケースが少なくなかった。
このように互いに計算ずくで接近する関係を、旧軍では「納豆」(ねばねばしているの意)とか「マグ」(マグネット=磁石の意)と称したが、こうした関係を露骨に重視したのが東條(英機)であった。陸大受験を狙う部下にきめ細かな配慮をする一方で、陸軍大臣に就任すると人事権を恣意的に行使して、自分の息のかかった人間だけしか要職に就けなかった。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

2017年9月1日金曜日

(昭和)天皇自身は、終戦直後の四五年(昭和二十年)九月二十七日、

マッカーサーとの会見で「私は全責任をとる」と発言した。その一方で、当時の状況として開戦を拒否することは困難であったとの認識も示した。
「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」(『昭和天皇独白録』)
『検証 戦争責任』

昭和天皇は過去二回、

歴史の重大局面において政治的決断を下している。二・二六事件を起こした反乱軍への討伐命令、そして終戦の「聖断」である。
『検証 戦争責任』

2017年8月31日木曜日

ひととせをかへりみすれば

亡き友の数へかたくもなりにけるかな      山本五十六
『検証 戦争責任』

2017年8月19日土曜日

東條(英機)は昭和十九(一九四四)年七月に重臣や天皇の側近、

そして昭和天皇その人の信頼を失って辞職するのだが、その契機となったのは、三万を超える日本兵と一万人以上の民間人が玉砕したサイパン陥落であった。このときも東條は「サイパンを失うことは喩えて言えば蚊にさされたようなものだ」と豪語して、かかる事態に困惑する国民が悪い、精神がしっかりしていないからだと、うそぶいていたのである。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

東條英機の官僚体質

昭和二十年八月十日の御前会議によって、日本はポツダム宣言の受諾を決定した。東條はこの会議の三日後、八月十三日に自らの心境を日記風にまとめている。
「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」
この手記に目を通したとき、私はすぐに二つ感想を抱いた。ひとつは、軍官僚としての東條には、敗戦という未曾有の事態に際しても、指導者としての自らの責任に対する反省がまったくないということ。もうひとつは、戦争指導にあたって三百万人余の国民を犠牲にしながら、その痛みに対して何の思いも馳せていないことである。
『官僚亡国  軍部と霞が関エリート、失敗の本質』

東條英機

2017年8月12日土曜日

「機動部隊指揮官に報告。われレイテ湾に向け突撃、玉砕す」

西村(祥治)中将は平常とまったく変らない落ち着いた声でいった。これが司令官の声を聞いた最後のものであった。おそらくこの報告はブルネイ湾を出撃するときから、司令官が考えておられた文句であろう。いや、私はそう確信するのである。司令官はレイテ湾を死に処ときめていたにちがいない。
(……)
山城の乗員約千四百名、生き残ったものわずかに十名。また山城と行をともにし、ともにスリガオ海峡で沈んだ扶桑(乗員約千三百五十)の生存者も十名を数えるだけである。(戦艦山城主計長(大尉)江崎寿人氏)
『完本・太平洋戦争』

スリガオ海峡夜戦


レイテでの出陣前での寄り合いで、

部下達に隔たり無く付き合い、明るく振る舞う姿に、小柳富次は「西村(祥治)は死ぬ気だ」と感じている。
『指揮官と参謀』

西村(祥治)艦隊の潰滅的な最後は、太平洋戦争における

最も無残な殲滅戦であったとされている。海峡の闇の中で、日本側は戦艦二隻、駆逐艦三隻を失い、戦死者約四〇〇〇名に及んだのに対して、米側の被害は魚雷艇一隻を失っただけで、戦死者は約四〇名にすぎなかった。この「スリガオ海峡夜戦」("The Battle of Surigao Strait")は、航空機を伴わない史上最後の艦隊決戦となった。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

西村祥治中将

2017年8月11日金曜日

(昭和十九年十月二十三日)〇六三〇前、一斉回頭で取舵をとって

左に変針していたその瞬間、(羽黒の)左舷側約四キロを進んでいた艦隊の中心、第四戦隊の方角に突然、黒煙が上がった。「空襲!」の声が響くが、機影は見えない。怖れていた敵潜水艦の襲撃に違いない。「配置ニ就ケ」(〇六二七)のブザーが唸る。分隊員と一緒に海軍体操をやっていた後甲板から、艦橋に駆け上がって見ると、左方先頭の旗艦「愛宕」は黒煙に包まれ、続く「高雄」は艦尾から煙を吹いて旋回しながら「舵故障」の信号を掲げている。
(……)
〇六四四、「羽黒」の左後方(一四〇度)に魚雷二本が走ってくるのを認めて「面舵一杯」で危うく回避したが、しばらくして後方に閃光が稲妻のようにきらめいた。約一キロ後を続航していた「麻耶」だ。火柱が消えた前部砲塔の上に這い上がった二、三人の姿が見えたが、瞬時に艦首と艦尾を突き立て合わせるようにして轟音とともに海中に没した(〇六四四・三〇秒)。
(……)
〇七〇二、旗艦「愛宕」は檣頭高く掲げた長官旗と共にその姿を没した。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

パラワン水道での「愛宕」被雷時の隊形

2017年8月9日水曜日

スルアンからの電報は、フィリピンの現地部隊、

特にレイテ等中南部フィリピンの地上防衛を担当している第三十五軍(司令官、鈴木宗作中将、在セブ)にとっては寝耳に水で、この情報を直ちに信ずることができなかったのは、台湾沖航空戦の大戦果が伝えられた直後であって、大損害をうけたはずの米軍の、こんな早い上陸は考え及ばなかったからである。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月8日火曜日

その日(昭和十九年十月十七日)、レイテ湾入口にあるスルアン島の

海軍見張所は〇六五〇に戦艦一、駆逐艦六を、次いで〇七二〇に特設空母一、〇七二五に戦艦一、空母一の近接を認め、直ちに平文でその旨を速報した。そして、〇七四〇「敵ハ上陸準備中」と報じ、〇八〇〇には「敵ハ上陸ヲ開始セリ  天皇陛下萬歳」との電報を最後に連絡を絶った。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月3日木曜日

マッカーサーは、開戦劈頭、誇り高い彼を

コレヒドールから追い落とした、当時の第十四軍司令官本間雅晴中将を、バタアンでの「破廉恥な死の行進」("infamous death march")を口実に刑死させずにはおかないという憤怒にかられ続けてきた。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月2日水曜日

「『油はこんなにございます』が嶋田(前)海相、

『油はこれだけしかございません』(と陛下に言上するの)が米内海相」(井上成美『思い出の記』)
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

小沢治三郎中将は、「戦(いくさ)は人格なり」

「部下統率の極意は無欲」を信条とし、「独創性」「合理性」「現実性」「適応性」を尊重した。「水雷屋」出身でありながら、いち早く飛行機の将来を認め、来たるべき海上決戦の主力は空母航空戦であることを予知し、機動艦隊の編成を早くから具申している。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

(井上成美大将と)同じく戦後、清貧のうちに八十歳で死んだ小沢治三郎提督の葬 儀

(昭和四十一年十一月十三日、死去は九日)には米国大使館駐在武官も参列し、モリソン博士も「偉大な戦略家であり船乗りであった小沢提督の死を悼む」という弔辞を寄せている。ニミッツ元帥は、「敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。小沢提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている」と語っている。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

米海軍が日本の提督のうち、

戦略家として最も高い評価を与えたのは山本五十六元帥よりは小沢治三郎中将ではなかったかと思われる。

『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年8月1日火曜日

初陣の旗艦「大鳳」轟沈

「翔鶴」が(敵潜カバラの三本の命中魚雷により)沈没して間もない(昭和十九年六月十九日)一四三二、目前の「大鳳」が突如、目のくらむような大爆発を起こした。再び潜水艦の攻撃かと思われたが、その原因は、(敵潜アルバコアからのガソリン・タンク付近への一本の命中魚雷を受けていた為)ガソリンの臭気を抜くため、すべてのベンチレーター(換気栓)を開放したことが、ガソリンと重油の揮発性ガスを艦内に充満させ、艦全体を爆発寸前の巨大なシリンダーと化してしまい、それに排気のための電動送風機の火花が引火したのである。爆撃に耐えうるための厚い飛行甲板が、下からの爆発を押えたため、爆発圧力をさらに強める結果となり、甲板を小山のように盛り上げながら二つに割れ、内部の人員を圧殺して、艦内を阿鼻叫喚の灼熱地獄と化し、隔壁を横に打ち破った火柱が艦側から轟然と沖天に噴き上がった。昼食を終えて艦橋に上がった筆者(羽黒乗艦)の目前に、目のくらむような閃光が走り、大音響が伝わり、艦載機の破片に混って四肢を虚空に大の字に突っ張って吹き上げる乗員のいくつもの姿が、艦橋からまざまざと双眼鏡に映る。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

空母大鳳

2017年7月31日月曜日

昭和十九年五月二十七日、米軍ビアク来攻。

ビアクを失えばパラオは敵機の攻撃圏内に入り、また、ミンダナオ東方での機動部隊の行動は不可能となるので、「あ号作戦」が成立しなくなるおそれがあった。このようにビアクは、「戦局の分岐点たる関ヶ原」(宇垣纒『戦藻録』)と言われるまでに重要視されていた。
(中略)
連合艦隊が渾作戦に気を取られ、ビアク島に日本側の注意が注がれている間に、米軍の大部隊はビアク島のはるか東北一三〇〇浬の主目標サイパンに向かっていたのである。連合艦隊に見捨てられたビアク島約一万名の守備隊(支隊長葛目直幸大佐)は、奮戦むなしく玉砕し、八月中旬以降その連絡が途絶えた。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

2017年7月30日日曜日

鹿屋には正体不明で接触禁止の部隊が木造兵舎にいた。

米軍に大打撃を受けたミッドウェー海戦の敗残兵で、開戦半年で惨敗した事実を隠蔽するため隔離されていたと後日知った。(元海軍航空隊整備兵 宮川貞光さん)

(米軍の場合)強く批判されるのは無益な流血の戦闘を指揮した場合で、

タラワの上陸戦(昭和十八年十一月二十一日〜二十五日)はその例である。用兵を誤った指揮官は調査査問をうけ、場合によっては容赦なく更迭されている。
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

「(前略)……ただ残念なことは、日本は経済的打撃からは

奇蹟的に立ち直りましたが、精神的打撃の傷あとは今なお深く、私達が戦い抜いてきた戦争も何故か国民が公には触れたがらない歴史、秘めたる歴史のページになっているのであります。いたずらに戦争の悲惨な面のみが強調され責任のみが追及される世相、価値判断が全く異なってしまった若者達に、あの戦争とそれを戦った人々のほんとうの姿を理解させることは困難だからです。……」(昭和四十六年五月十六日、佐世保に建立された重巡「羽黒」慰霊碑の除幕式における、生存者代表、元「羽黒」通信長元良勇氏による祭文)
『連合艦隊  サイパン・レイテ海戦記』

重巡羽黒

2017年7月29日土曜日

太平洋戦争中期以降、アメリカはカーチスSB2Cヘルダイバー(三代目)を、

また日本はまず「彗星」、次に「流星改」を登場させた。特に流星改は艦爆と艦攻を合わせた性能を備える機体で、アメリカもダグラスBT-2Dスカイレイダーで艦戦兼艦爆兼艦攻を実現する。流星改がかろうじて実戦に参加したのに対し、スカイレイダーは太平洋戦争には間に合わなかった。
『歴史群像  OCT.2016』

太平洋戦争勃発時には、ダグラスSBDドーントレスが

艦爆の主力となっていた。
『歴史群像  OCT.2016』

2017年7月28日金曜日

戦後の小沢(治三郎)は、世に出ることを嫌い、

手記の類や談話の提供も拒絶して沈黙の人生を送った。それでも「あのとき(レイテ沖海戦で)、まじめに戦争をしたのは、西村一人だったよ」と漏らしている。小沢は言外に、「スリガオ海峡沖海戦」で戦死した西村祥治司令官以外の、レイテ沖で戦った自分自身を含めた各指揮官の働きを否定したのかもしれない。(手塚正己氏)
『歴史群像  OCT.2016』
西村祥治中将

2017年7月27日木曜日

(小沢治三郎中将は)終戦直前に米内光政海軍大臣から大将に推戴されたが、

「いま必要なのは位階ではない」と固辞した。硬骨漢として知られた小沢らしい心ばえが見て取れる。終戦直後、部下を道連れに特攻出撃した宇垣纒中将の行為を、軍令違反だと非難した。(手塚正己氏)
『歴史群像  OCT.2016』

2017年7月26日水曜日

皇太子が満十歳に達したのは昭和十八年(一九四三)十二月二十三日

であった。皇太子の意思にかかわらず(皇族身位令第十九条)、陸海軍の武官に任官しなければならない。しかし天皇はこのことを許さなかった。首相で陸相の東条英機は、天皇の前に進みでては「ぜひ軍人の士気を高めるために皇太子殿下に軍服を着せて任官してください」と申しでている。しかし天皇はそれにうなずかなかった。
『明仁天皇と裕仁天皇』

2017年7月25日火曜日

天皇家の「口承」

昭和天皇よりの日光にいる皇太子(平成天皇)への返信の手紙
昭和二十年九月九日

手紙をありがとう。
しつかりした精神をもって  元気で居ることを聞いて  喜んで居ます
(中略)
敗因について一言いはしてくれ
我が国人が  あまりに皇国を信じ過ぎて  英米をあなどつたことである
我が軍人は  精神に重きをおきすぎて
科学をわすれたことである
明治天皇の時には  山県  大山  山本等の如き陸海軍の名将があつたが  今度の時は  あたかも第一次世界大戦の独国の如く  軍人がバツコして大局を考へず  進むを知つて  退くことを知らなかつたからです
(後略)

ここには天皇家の「父と子」のみに伝えられる口承の意味があった。それだけに重大な内容でもある。
『明仁天皇と裕仁天皇』

2017年7月22日土曜日

「いやしくも名将は特攻隊の力は借りないであろう。

特攻隊はまったく生還を期さない一種の自殺戦術である。こうした戦術でなければ、戦勢が挽回できなくなったということは明らかに敗けである。だが敗けるということは滅亡するということとは違うのであって、その民族が活動力さえあれば、立派な独立国として世界に貢献することもできるのであるが、玉砕してはもう国家そのものがなくなり、再分割されてしまうのだから、実も蓋もない」(『鈴木貫太郎自伝』より)
『大人の見識』

2017年7月9日日曜日

直言居士がいない時代である。

立場よりも、正道を貫く人間の姿がない。組織の空気を読むばかりを美徳とする風潮が、いかに世を息苦しくしているか。(立野純二氏)

2017年7月8日土曜日

「いよいよ米軍の上陸だ。平素の訓練を発揮し、

御国(みくに)に御奉公すべきときが来た。ひめゆり学徒の本領を発揮し、皇国のために働いてもらいたい」(西岡部長)
と感慨にみちた面持ちで、わざわざ縁先からおりて一人一人にあいさつされた。乙女らの胸は、桜の校章で飾られてはりつめていた。
アルバムからはぎとった親兄弟、親しいお友達の写真を胸に抱きしめながら、部長住宅の西門から南風原陸軍病院へと出発したのは十時ごろだった。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』


艦砲射撃はじまる

(一九四五年三月二十四日)十時ごろだった。那覇署の警官が壕に息せききってかけこみ、
「艦砲だ!港川(みなとがわ)に艦砲がはじまった」
と告げた。いよいよ上陸だ。来るべきものが来た。私はじっとしておれず、壕を飛びだし、飛行機の飛びかう中を学校へと急いだ。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』

2017年7月7日金曜日

(学徒勤労令によって動員された)彼女たちは

かつてB29の爆撃の中で、「お母さん」と言いながら死んでいった友の断末魔の声を忘れることができないでいる。こんな苦しい叫びを聞いたことがあったであろうか。
『女子学徒の戦争と青春』

2017年7月2日日曜日

「二千万人の男を(特攻で)殺して、

だれがこの国を再建できるのか」(小沢治三郎)
『昭和の戦争』
小沢治三郎

ソ連の戦争犯罪、といえばシベリア抑留のみならず、

対日参戦後、制圧した満州などで民間の日本人や中国人、朝鮮人に対して行った暴行も残虐なものでした。特に強姦がひどかった、と帰国者の証言が残っていますね。
日本政府は、ロシアやアメリカに対して、原爆投下やシベリア抑留、満州での残虐行為などが戦争犯罪にあたる、として大きな声を上げたことはありませんよね。いさぎよい、といわれればそうかもしれませんが、敗戦国の戦争犯罪だけが恥ずべき犯罪で、戦勝国のそれは免罪されるということではないと思うんです。
それに、日本はなんといっても世界唯一の被爆国です。少なくとも原爆については、われわれの側が積極的に提起していく問題があると思います。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』

直言の男、石原莞爾

二人(石原と東条英機)の関係は、不仲という言葉では片付けられないほど険悪だったでしょう。
その会談で、当時首相だった東条が「ガダルカナルを救う方法は?」という意味の質問をしたところ、石原は「戦争の指導はあなたには出来ない。総理大臣をやめるべきだ」と言い放っています。私はこの会談の記録を二度、三度と繰り返してゆっくりと読んでみました。東条からあれほど苛酷な仕打ちを受け続けた石原ですが、私は彼の言葉に私憤の響きを感じませんでした。また東条も相手の言葉を冷静に受け止め、最後まで礼儀正しい態度で別れた、と報じられています。(角田房子氏)
『昭和の戦争』
石原莞爾

普段はきれい事を言っているくせに、

いざとなれば自分だけ安全地帯へ逃げ込む軍人は少なくないのですが、今村(均)さんの態度は筋が通っていました。今村さんはジャワから巣鴨プリズンへ移送されましたが、部下たちが劣悪な待遇におかれているのを知ってマヌス島の収容所へ志願して戻ります。マッカーサーはそれを知って、「日本にはまだ真の武士道が生きている」と声明を出していますね。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』
今村均

2017年6月30日金曜日

中隊長の人間性

保阪正康氏――いい中隊長と悪い中隊長を分けるものは何なのでしょうか。人格ですか。

伊藤桂一氏――一つには教養でしょうか。自分が権力を手にしたときにそれを濫用しない自制心ですかね。でも一番はやっぱり人間性ですね。部下に対して威張らない、親切であること。信頼できる人は、自分から先に死ぬ覚悟ができています。そういう人の下にいると、あの中隊長のためならいつでも死ねると兵隊が思います。そういう部隊は強いです。
『昭和の戦争』

2017年6月27日火曜日

「阿南(惟幾)は、自分に信頼をよせている

部下を欺くような男ではなかった」(阿南の義弟、竹下正彦中佐(当時))
『一死、大罪を謝す  陸軍大臣阿南惟幾』

2017年6月26日月曜日

天皇は、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を呼び出して

開戦となった場合の見通しを質し、陸軍は南方を三ヵ月で片付けるという杉山に「杉山は支那事変勃発のときは陸軍大臣として一ヵ月で片付くと言ったが四年も続いているではないか」と問い詰めて、タジタジとさせています。(保阪正康氏)
『昭和の戦争』

大詔を拝し奉りて

昭和十六(一九四一)年十二月八日  東条英機

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、と連合し支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽く迄平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若し(もし)帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪へず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦(また)、己が身を顧みず、醜の御楯(しこのみたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。
およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。
当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりませぬ。これと同時に絶大なる建設的努力を要すること言を要しませぬ。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是こそ、昭和の臣民我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことが出来るのであります。
この秋に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、欣快とするものであります。帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。
私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。


2017年6月24日土曜日

こうして、インパール作戦の反対者は淘汰され、

様々な個人的政治的利害を追求する人々が生き残り、非効率な資源配分をもたらすインパール作戦実地が合理的に承認されるというアドバース・セレクション(逆淘汰)現象、つまり逆淘汰現象が日本軍に発生したのである。かくして、昭和十九(一九四四)年一月七日、大本営は、成功する見込みのまったくないインパール作戦の決行を承認したのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』

沖縄戦への哀悼

昭和二十年六月二十三日、第32軍司令官牛島中将、参謀長長中将、司令部壕東側入口で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。

合掌





2017年6月22日木曜日

インパール作戦反対論

補給出身で当時「兵站の神様」と呼ばれていた小畑信良(おばたのぶよし)第十五軍参謀長は、この作戦に反対の意を唱えた。彼は、数度にわたる空中偵察を行った結果、補給困難を理由に、この作戦が実行不可能であると判断したのである。これに対して、牟田口(廉也)は小畑参謀長を必勝の信念に欠ける臆病者と判断し、赴任後、わずか一か月半で彼を更迭した。

また、インパール作戦に参加する三個師団、つまり第十五師団山内正文(やまうちまさふみ)中将、第三一師団佐藤幸徳(さとうこうとく)中将、そして第三三師団柳田元三(やなぎだげんぞう)中将の各師団長も、補給困難を理由にしばしば第十五軍牟田口司令官と対立していた。とくに、陸大三四期で成績優秀者として天皇から軍刀を授与された恩賜軍刀組の柳田中将は、何事も理論と計算によって行う合理主義者であった。彼は、ソロモン、ニューギニア、そして太平洋の戦訓から航空戦力の劣勢と補給能力を欠くインパール作戦は必ず失敗することを明言していた。そして、この柳田中将の意見に、山内中将と佐藤中将も共感していたのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』



不条理なガダルカナル戦

限定合理性の観点からすれば、ガダルカナル戦での日本陸軍の不条理な白兵突撃戦術へのこだわりは、実は人間の非合理性が生み出した行動ではなく、むしろ当時の状況から推測すれば、そのような行動は合理的だったのである。このような人間の合理性が夜襲による白兵突撃のようなまったく非効率でナンセンスな戦術に日本陸軍をロック・インさせ、多くの犠牲と悲劇を生み出したのである。ガダルカナル島は、そうした人間の合理性が生み出した最悪の戦場だったのである。
『組織の不条理  なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』


2017年6月18日日曜日

むろんこれはソ連のいいががりで、

ソ連はこの年(昭和二十年)二月のヤルタ会談の秘密協定によって、ドイツ降伏後三カ月をメドにして対日参戦することになっていたからだ。しかし(情報局総裁)下村(宏)も指摘するように、(ポツダム宣言の)「黙殺」はソ連に体よく利用される表現でもあった。
『昭和天皇実録 その表と裏』

第32軍司令部崩壊

牛島(満)第32軍司令官は、(昭和20年)6月18日夕、参謀次長及び第10方面軍司令官あてに訣別伝を発した。
「……勇敢敢闘茲に3箇月全軍将兵鬼神の奮励努力にも拘わらず、……戦局正に最後の関頭に直面せり、……上陛下に対し奉り下国民に対し真に申訳なし……皇室の弥栄と皇室の必勝とを衷心より祈念しつつ、茲に平素の御懇情、御指導に対し深甚なる謝意を表し遥かに微衷を披瀝し以て決別の辞とす」
『定本 沖縄戦』

2017年6月17日土曜日

「(昭和十九年)八月私(井上成美)が(海軍)次官に着任して

間もなく、(米内)大臣から『陛下から燃料の現状をご下問になったので奉答のため資料を』とのお話があり、軍需局長にその目的を告げて資料を求めたところ『本当のことを書きますか』と尋ねるから『変なこときくネ。陛下に嘘を申し上げられない。勿論ほんとのことさ、なぜそんなことをきくのか』と問うと『実は島田(ママ)大臣のときはいつもメーキングした資料を作っておりました』と答えた」
『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料(上下)』

2017年6月15日木曜日

統帥部への激しい怒り

(昭和天皇)実録には書かれていないが、五月三十日(昭和十八年)に参謀総長の杉山元が戦況上奏した折には、「アッツ島部隊は任務に基づいて最後までよくやった。右通信で伝達する」よう伝えると、杉山は「暗号書は焼却され、通信機は破壊されております。聖旨のほどを届けることはできません」と答えた。天皇は次のように反論したという(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』)。

「届かなくてもいいから北太平洋に向けて電波を出せ」
『昭和天皇実録 その表と裏』

東部軍司令部(昭和十七年四月)十八日発表

「午後零時三十分ごろ敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、我が空、地両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり、現在までに判明せる敵機墜落数は九機にして我が方の損害軽微なる模様、皇宮は安泰に亙(わた)らせらる」

日本上空では一機も撃墜されなかったのに、九機撃墜との発表に対し、「落としたのは九機ではなく空気だ」と陰口を叩かれたという(富永謙吾『大本営発表の真相史』)。
『昭和天皇実録 その表と裏』

2017年6月9日金曜日

(昭和天皇)実録には幾つかの意外な証言がある。

たとえば昭和十六年七月七日には、海相の及川古志郎の奏上の折に、次のように語ったとある。

「当初仏印出兵に反対で軍令部総長(保阪注・永野修身)が、部下の進言により決心するかの如き話があるとされ、志に動揺を来しては困ること、また日米交渉に対しても冷淡な様子であるとして疑問を呈される」

天皇は海軍の軍令部総長に信を置いていないともいえる。
『昭和天皇実録 その表と裏』

2017年6月8日木曜日

昭和二十年八月九日に、ソ連は日ソ中立条約の違約

というかたちで満州に進撃しているし、八月十五日以後九月二日の無条件降伏文書への調印の日まで、千島列島や樺太に兵を進めている。このときスターリンは、こうした一連の行動を「かつての日本との戦争(注・日露戦争)の復讐戦である」といったが、スターリンの潜在心理にはそのような怨念がのこっていたことを物語っている。
『昭和陸軍の研究』

送られたのは奉天に近い営口であった。

ここで守備隊に配属された。M老人のような補充兵の間では、「補充兵は消耗兵なり。進撃ラッパは冥土の鐘なり」とささやかれていたというのだ。
『昭和陸軍の研究』

2017年6月7日水曜日

日暮れまでまだ四五時間はあるし敵はいよく

身近かに迫って危険が感じられた。兵隊は状況が迫ってきた事を肌で感じ”小隊長大丈夫ですか”としきりに寄ってきた。
『菊と龍』

2017年6月4日日曜日

標高三千メートルを平地で計算

北ビルマからインパールに向かう進撃地域が山系、峡谷、高地ばかりだったことで、兵士たちは標高三千メートルの山々をひたすら登り降りしながらすすまなければならない。この地形は牟田口(廉也)や参謀たちの予想をはるかに超えていた。しかもチンドウィン河からインパールの距離を、例えば第十五師団は約七十キロ、第三十一師団は約百キロ、第三十三師団も約百キロと想定していたが、これは平地の実測に等しく、山系や峡谷を登り降りする距離のそれこそ十分の一ていどになるのではないかと思われるほど甘い計算だった。
『昭和陸軍の研究』

昭和陸軍の軍人たちは、「軍人勅諭」を頭に叩きこむのを

第一義とした。この「軍人勅諭」にあらわれている精神こそ軍人の最高道徳であるというのであった。この勅諭が唱せられるときは誰もが直立不動の姿勢をとるほど権威化されていたのである。

「一、軍人は忠節を尽すを本文とすへし
   一、軍人は礼儀を正くすへし
   一、軍人は武勇を尚(たつと)ふへし
   一、軍人は信義を重んすへし
   一、軍人は質素を旨とすへし」

文民支配を拒否するとの意味で、

解説文のなかには「我が国における憲法学者の大部は、統帥権独立制に対する擁護又は承認論者にして、異説をなす者は比較的少数なり」という一節もある。
この『統帥参考』は、陸大のなかで行われた教育がどのようなものかをはっきりと位置づけている。軍人こそが大日本帝国の主たる役目を果たす存在であり、その軍人の行動には他のどの集団の誰もが口を挟むことはできないというのであった。
『昭和陸軍の研究』

2017年6月3日土曜日

さらにもう一点加えるなら、

昭和陸軍の軍事指導者は〈人間〉に対しての洞察力を著しく欠いていた。哲学的、論理的側面から人間をみることはできず、単に戦時消耗品とみる気質から抜けだすことはできなかった。
その具体的例としては、つねに歩兵重視の肉弾攻撃にとらわれていたこと、兵士を無機質の兵器に育てることに懸命になったこと、補給、兵站思想をないがしろにしたこと、などによくあらわれている。意味もなく兵士たちに玉砕を命じ、それに対して自省もなく次つぎにその種の作戦を命じたこともあげられる。
『昭和陸軍の研究』

太平洋戦争を担った軍事指導者の共通点のもう一点は、

親ドイツ、反英米、という考えに固まっていたことである。もともと日本陸軍はフランス陸軍を模倣して建軍された。だが普仏戦争(一八七〇〜七一年)によってフランス軍が敗退すると、今度はドイツ陸軍を真似た。明治十年代にはドイツ陸軍の軍人が日本に招かれ、陸大においてドイツ型の軍事教育や精神教育を行ったのである。さらに陸軍幼年学校では、ドイツ語、ロシア語などが中心になり、英語教育はまったく軽視された。
『昭和陸軍の研究』

太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、

だいたいが明治十年代中期から二十年代後期にかけての生まれである。
彼らにはいくつかの共通点があった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。
『昭和陸軍の研究』

2017年4月28日金曜日

陸海軍の全神経が、ソロモン諸島とガダルカナル島に

奪われている間に、その虚を衝いてわが国防圏の西玄関たるビルマを侵されるようなことになったら、戦局は大変なことになる道理だが、事実はまさにその通りに動きつつあったのだ。
『帝国陸軍の最後』

新軍司令官の牟田口廉也中将を補佐する

参謀長には、小畑信良少将(のちグアム島守備隊司令官戦死)が就任した。しかし、小畑少将は牟田口と意見があわず、わずか一ヵ月で更迭され、久野村桃代少将が後任となった。
稀にみる切れ者といわれた小畑が、参謀長職を免ぜられたのは、牟田口のインド侵攻論に真っ向から反対し、牟田口の心証を害したからだといわれており、創設早々の第十五軍内部に、暗い影を投じていった。
『菊と龍』

2017年4月25日火曜日

ちなみに、現在の韓国大統領の父親である朴正煕(パクチョンヒ)元大統領は

生前、日韓併合時代をこう語っています。
「しかしあのとき、我々は自分たちで選択した。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択したのだ。もし清国を選んでいたら、清国はすぐに滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったであろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて(ソ連になり)半島全体が共産主義国家になっていた。北も南もすべて共産化された半島になっていたということだ」
『誇りある日本の歴史を取り戻せ』

2017年4月24日月曜日

「三国干渉」でずる賢く動いたロシア

そもそも三国干渉は清国からの依頼でもあったのですが、それをうまく利用して利を得るこういうずる賢さは、武士道でやってきた日本にはないものです。特にロシアの場合は、その後のソ連にも引き継がれていく伝統芸のようなものですから、北方領土を取り戻すには、彼らを上回るような悪知恵も必要なのです。
『誇りある日本の歴史を取り戻せ』

2017年4月23日日曜日

日本の本土空襲の指揮をとっていたのはカーチス・ルメイ

という将軍でしたが、彼は戦後、明らかに非戦闘員を狙った爆撃だったとする批判に対して何ひとつ反省の意を示しませんでした。ところが、日本政府はそんなルメイ将軍に対して、「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」という理由から勲一等旭日大綬章を贈っています(昭和三十九年)。時の総理大臣は、のちにノーベル平和賞を受賞することになる佐藤栄作です。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月22日土曜日

日本が独立すること(昭和二十七(一九五ニ)年のサンフランシスコ講和条約を指 す)

に反対した連中は「国賊」であることをはっきり認識しておく必要があります。この点は忘れてはいけません。何度でも指摘しておく必要があります。
とにかく、日本の独立に反対した連中がのうのうと生きているのは怪しからん話です。だから左派が何か生意気なことをいったら、「なんだ、日本の独立に反対したくせに何をいうか」と、われわれはそういう匕首(あいくち)をつねに懐に忍ばせておかなければなりません。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

アメリカは台湾を見捨てない

ーー台湾よ、大陸が武器をもって侵攻してきたら守ってあげるから、いまは静かにしていてくれ、ということでしょう。台湾が早く独立したいと焦る気持はわかる。しかし台湾が「いままでどおりの台湾である」といっていれば中国も事を荒立てまい。そうすればそのうち大陸が崩れるだろう、というのがアメリカの計算のようです。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月21日金曜日

中国はこのところ毎年、対前年比二桁のスピードで

軍備拡張を続けています。旧ソ連(ロシア)からどんどん武器を買い、技術も買っています。潜水艦も買い、さらには戦闘機も買っている。日本からODA(政府開発援助)をもらいながら、年間のGNP(国民総生産)の二割以上も軍備拡張に使っています。そんな非常識なことを続けているのが中国という国です。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

周知のように中国は食糧や海底油田を求めて

海のほうにも進出してきています。
たとえば、日本の固有の領土である沖の鳥島を「岩だ」と言い張って自国の海域を広げようとしています。あのあたりで魚を獲りたいという狙いからです。
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

奉天では日本人がうっかり城内にいくと、

巡警、野次馬でふくろだたきに会う。小学児童の通学には、領事館警察隊が護衛していったが、それでも投石された。(『消えた帝国  満州』毎日新聞社)
『中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史』

2017年4月20日木曜日

実りなき総括

(昭和十四年五月二十八、二十九日の)二日間の戦闘で、敵に与えた損害は
  人  約百名死傷
  軽装甲車  五両炎上
  軽戦車  約十両破壊炎上
我が受けた損害は
  東中佐以下  約二百名戦死
  軽装甲車  約十両損失
一勝一敗であった。

右が、第一次ノモンハン事件に対する辻政信の”総括”である。

これでは誰しも「一勝一敗」とは認めず、辻の負け惜しみがクローズアップされるだけなのに……

が、神話の世界に、どっぷりつかっていた日本の軍部人たちには、怜悧な反省はなく「負けたのは山県部隊がダラシナイからだ。今度は、もう少しマシな部隊に、やらせよう」という誇り高い発想から、関東軍直接指導の第二次ノモンハン事件へと発展する。
『ノモンハン事件』

「辻のやっていることは、表向き軍規の粛清、

士気の昂揚を目的としていたといえなくもない。しかし実際において現れてくる結果は、辻に弱点を握られた上級者が、彼に遠慮し、彼の横暴を黙認するふしぎな事態であった。昭和期の陸軍の頽廃を最も端的に物語るものは、下剋上という現象だったといわれるが、辻などはその甚だしい一例であった」(杉森久英氏)
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

「ともかく辻(政信)は、大物から一本取る名人

であった。彼は新しい部署へ配属されると、まず経理部へ出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と、料亭の支払伝票を調べあげるのであった。これによって、彼らの私行上の秘密は押えられ、辻に頭があがらなくなった。自分のやり口が、非常に卑劣なものだという自覚は辻にはなかった」(杉森久英氏)
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月19日水曜日

部下は隊長が身をなげうって戦えば、

最後の一兵まで健闘する。隊長がいなくなればたちまち烏合の衆となるという事実を、(東)捜索隊全滅の資料を読むうちに、いまさらのように覚った。勇将のもとに弱卒なしという諺は真実であった。
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

東捜索隊の全滅については(昭和十四年)六月三日の

東京朝日に、「白刃の突撃戦、壮絶東部隊長の戦死」という見出しで、池田軍医中尉が東隊長の遺骸を守ったという美談が報じられただけであった。全滅の事実は伏せられたのである。
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月17日月曜日

二〇〇六年の二月、事件から七十年目にして初めて、

二・二六事件で殺害された重臣たちの生々しい写真が世に出た。
(中略)
実に凄惨な現場であった。六十代、七十代の天皇の側近たちはめった斬りにされ、そして銃でも撃たれている。これらの写真を見ているうちに、内務省は同じものを昭和天皇に見せたのだろうかという疑問が湧いてきた。
(中略)
(事件当時)もし現場写真を天皇が見ていたとすれば、決して青年将校を許すことはないだろう。七十年の時が経っても、見る者に恐ろしさを感じさせる写真なのである。
「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、此ガ鎮定ニ当タラン」
天皇は尋常ならざる怒りを抱き、「凶暴」「殺戮」という言葉で青年将校を非難している。その言葉から、あの現場写真を見た可能性を感じることはできないだろうか。
『検証・昭和史の焦点』

(東捜索隊の)金武(盛重)副官の記述した

戦闘詳報には、第三大隊長譜久村(ふくむら)安英少佐の要領を得ない、見方によればきわめて狡猾冷酷ともうけとれる応対に、抑えきれない憤懣がこめられている。

譜久村少佐は、到着地点を七三三高地と見誤っていたので、そのうえの進出を要請されても応じる必要はないと考えたとしても、軍規違反をしたわけではない。
しかし東捜索隊が敵の重囲のなかで苦闘しているとき、第三大隊が救援におもむくのは、友軍に対する義務であった。

(昭和十四年五月二十八日の午後以降、二十九日十八時頃の最後の突撃までの間)東捜索隊が全滅の危機に直面していることは、状況を判断すれば一目瞭然である。譜久村少佐が友軍を見殺しにした事実は、戦闘詳報においてどのように辻褄を合わせようとも、打ち消すことはできないことになるのではないか。
小松原師団長の日記には、譜久村少佐への批判が記されている。
一、大隊長は攻撃計画、ことに支隊の目的を理解せず、川又に進出すべき積極的精神は最初より消耗せられあり。
……
『八月の砲声  ノモンハンと辻政信』

2017年4月13日木曜日

ただ、私は、素人の戦記ならともかく、

辻(政信)のような俊秀の誉れ高かった軍事専門家が、激戦を表現するためとしか思えない誇張を用いることにこだわるのである。この戦闘での惨烈な激戦の意味は、辻参謀を含む作戦指導者たちが敵の戦力を下算して作戦を立て、妥当でない用兵をしたにもかかわらず、実戦に投入された将兵が力戦死闘を重ねたことにあるのであって、敵の戦車の数を誇大に伝えることにあるのではない。
『ノモンハン』

2017年4月12日水曜日

この作戦は多くの点でハンニバルの

カンネーの戦いに似ている。これは史上二度目の完璧な包囲戦となるだろう。
 ーーG・M・シュテルン上級大将
『ノモンハン 草原の日ソ戦ーー1939』

小松原将軍の見るところ、

多数の有能な将校を失った結果、各部隊の攻撃力は七月前半に比べてかなり落ちており、“突進力”は弱まっているように思われた。
『ノモンハン 草原の日ソ戦ーー1939』

2017年4月10日月曜日

おまけに、この時期(第二次ノモンハン事件のハルハ河両岸攻撃)から、

再三再四「ソ連退却」という関東軍情報を流して、諸隊の出撃を"せき立てた"ヤツがいるのだ("タカ派関東軍参謀"だとか、ズバリ辻だとかの憶測がある)が、事件後は"なにくわぬ顔"でドロン……という次第である。
『ノモンハン事件』

2017年4月9日日曜日

ピアノ線に阻まれて

ピアノ線はキャタピラに深くからみつき、戦車はいずれも「クモの巣に捕らえられた蝶のように」前にも後ろにも動けなくなり、敵の砲火は情け容赦なく降り注いだ。
『ノモンハン  草原の日ソ戦ーー1939』

五味川(純平)氏は、日本陸軍の思考方法は

頑固かつ独善的に敵を過小評価し、理屈に合わなくても楽観するという、百害あって一利ない態度を基本とする"封建的"なものであったとこきおろしている。「やって見なければ何が起こるかわからない。最善を尽くせば道は開ける」という考えはその一つの例である。
『ノモンハン  草原の日ソ戦ーー1939』

2017年4月2日日曜日

「現状の認識と手段においては」

参謀本部と関東軍の間で「いささかその見解を異にし」ているように見えるが「北辺の些事は当軍に依頼して安心せられたし」。
関東軍の乱暴で思い上がった、服従の意思の見られない返電らしきものを受け取って、こんどは参謀本部が腹を立てる番であった。隣国の領土内に戦爆百機以上を送って攻撃したのを”些事”とはなにごとか。関東軍には日本を戦争に追いこむ権利があるのか。どちらが大本営でどちらが現地軍なのか。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』

2017年4月1日土曜日

そして多分にあり得ることだが、

もしも”煮えきらない”中央当局が新京での決定に同意しなければ、一九三七年のカンチャーズ事件にかかわった唯一の現職参謀である辻(政信)少佐が個人的にも証言できることだが、今度の場合も統帥の重複のせいで第二のカンチャーズ事件の”過ち”を犯すことになるだろうと論じた。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』

彼らは、東捜索隊が全滅したことを告げた。

すると辻(政信)は「全滅とは何事か。君達四人が生き残っているじゃないか」と叱り飛ばしている。
『はじめてのノモンハン事件』

現場に居合わせた一通信兵はもっと辛辣に情景を

説明している。彼の回想では、辻少佐は山県大佐に対し、大佐の同期生である東中佐を救うために指一本すら動かさなかったと痛烈に非難し、戦闘が悲惨な結果に終わったのは、ひとえに山県大佐の”技量の欠如”によると言い切った。
『ノモンハン  草原の日ソ戦――1939』

2017年3月26日日曜日

関東軍参謀辻政信は、これを一勝一敗と強弁した。

先に東捜索隊が外蒙軍の小部隊をハルハ河左岸に撃退し、飛行機をもって若干の包(パオ)と人員を爆撃したのが一勝で、東中佐以下捜索隊が壊滅し、山県支隊の攻撃が失敗したのが一敗だというのである。
この負け惜しみはノモンハン戦の最後まで尾を曳くことになる。
『ノモンハン』
辻政信

2017年3月22日水曜日

「厳しいだけで人情はない。

命令だけですよ。結局、図上戦術と兵棋演習だけで築き上げられたもので、そこに人間は存在しなかったんですね。……辻政信などは、部隊が山上の敵を攻めているのをうしろで見ていて、もっと早く攻めさせろなどと言っている。攻めてる兵隊たちは、非常な苦労をしているというのに、ただやれやれでしょう。兵隊は山を上りながら死ぬ。そうした命令を無造作に出せるんですからねえ」(作家、伊藤桂一氏)
『ノモンハンの夏』

2017年3月20日月曜日

「満ソ国境紛争処理要綱」

強硬派の関東軍作戦参謀辻政信少佐が起案し、昭和十四年四月二十五日の関東軍兵団長会同で示達されたこの要綱がもたらした各方面への波及効果を検分しよう。要綱は冒頭で「軍は侵さず、侵さしめざる」を本則とするが、国境におけるソ蒙軍の不法行為(越境等)は「周到なる準備の下に徹底的に膺懲(ようちょう)」し、その「野望を初頭に於て封殺破摧(はさい)」する方針を宣言している。

全体に流れる好戦的姿勢はともかく、第一線の兵団長に国境の認定権を委ねたうえ、越境を意味する「一時的にソ(蒙)領に進入」(第三項)するのも容認したのは、天皇大権を犯しかねない越軌と見られてもしかたがない。
『明と暗のノモンハン戦史』

今岡豊少佐は陸大の学生だった一九三四年頃、

新京で関東軍参謀から「西の国境はこっちが強くなれば延びるし、向こうが強いと引っ込む。わざとぼかしておくんだ」と述懐したのを聞いている。(ノモンハン)事件さなかの三九年六月二十四日、天皇が閑院宮参謀総長へ「国境画定は関東軍が寧(むし)ろ之を欲せざりしにあらずや」と質問しているのは、今岡の回顧を裏付けるものかもしれない。
『明と暗のノモンハン戦史』

2017年3月6日月曜日

敗戦直前にソ連を仲介とする和平工作が進められたが、

冷徹な超現実主義者のスターリンが日露戦争の勝利者のためにどうして骨身を削ってくれようか。それどころか相手が弱体化したとみて、一気に襲いかかってきたのである。
『ミッドウェー海戦』

2017年2月22日水曜日

前日(昭和16年12月2日)の午後二時〇分には、

大本営陸軍部から南方軍、南海支隊、支那派遣軍等に対し、
一、大陸命第五六九号(鷲)発令あらせらる
二、「ヒノデ」は「ヤマガタ」とす
三、御稜威(みいつ)の下切に御成功を祈る
四、本電受領せば第二項のみ復唱電あり度
という電報が、参謀総長から一斉に発信されている。
『昭和の戦争 開戦前夜に』

2017年2月5日日曜日

ひめゆりの塔事件

    払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません

    1975年沖縄初訪問時、「ひめゆりの塔事件」後の、天皇陛下の異例とも言える談話

2017年1月27日金曜日

アメリカの外交官、ジョージ・ケナンは、

一九四四年のモスクワで、同じことをもっと簡潔に表現した。「ここでは、何が真実で何が嘘かを人が決めている」
『ブラッドランド』

2017年1月4日水曜日

「武蔵」よく戦えり

    艦橋の見張員から艦底の機関兵にいたるまで、そして、少将の艦長から一等水兵にいたるまで、自己の本分を果たした。その姿は悲壮であるが、私はそこに、かぎりない雄々しさを感じる。
    『戦艦「武蔵」レイテに死す』

「しかし、これは一分の生存の見込みもない必死のこと

であるため、諸子の中より希望者を募る。国のために一身を捧げても良いと思う者は、申し出てもらいたい。
今より紙を配るから、各自官等級氏名の上に熱望、望、否のいずれかを記して、明朝までに、下士官兵は先任搭乗員が纏めて、准士官以上は直接飛行長の元まで提出してもらいたい」
『修羅の翼』

2017年1月3日火曜日

機銃弾の連射にやられたのか、上腕をやられて

腕がぶらぶらになっているのが来た。
これは、裁鋏で私が切り落とした。すると、
「ああ、おれの腕がなくなってしまった……」
と泣くわけです。
それまでは負傷に気づかないで、ただ医務室へゆけばよいという一心で、たどりついて来たんですね。
『戦艦「武蔵」レイテに死す』

2017年1月2日月曜日

第二次攻撃の後は、どっと負傷者が来ました。

一番多いのは、やはり露天甲板にいた機銃員の人でした。
『戦艦「武蔵」レイテに死す』